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パリに暮らしパリを愛した、ローマ皇帝ユリアヌス


パリに暮し、パリを愛したユリアヌス


ユリアヌス帝の叔父であったコンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令を発して、初めてローマ帝国においてキリスト教を公認した人物でした。
幼少時より、キリスト教の影響を受けて育ったユリアヌスでしたが、成長するにつれて、聖書の説く一神教よりも、ギリシアの哲学に没頭するようになり、ギリシアのパンテオンに祀られた神々を信じました。

キリスト教ではなく、ギリシャの古代の神々を最高位に据えようとしたことから、キリスト教徒からは、「背教者」と呼ばれたことから、歴史上では「背教者ユリアヌス」の名で広く知られています。この「背教者」という呼び方は、あまりにキリスト教中心でありますので、フランスでは、「哲学者ユリアヌス」と呼ぶのが好まれています。

ユリアヌスは叔父の考えとは反して、哲学者として、自身の理想の生活を送っていましたが、いとこのコンスタンティウスにより副帝に任命されたことによって、彼の人生は大きく変わっていったのでした。
ユリアヌスはゲルマン民族の動きが活発化していた、ガリアの管理を任されると、その隠し持っていた軍事面への能力も発揮したのでした。

繰り返されたゲルマン民族征伐の間、ユリアヌスは、現在のパリ、リュテキアに暮らしました。彼は、リュテキアについて以下のように語りました。「セーヌ川の水は心地よく、とても澄んでいて、いつでも飲みたい時に飲むことができる。」今のセーヌ川からはその綺麗さを、とても想像できませんが、セーヌ川の水をユリアヌスは好んでいました。

また、現在では跡形もありませんが、彼の邸宅はシテ島のPalais de justice 裁判所がある場所にありました。戦いから戻り、疲れ果てたユリアヌスはシテ島でセーヌ川の水を飲み癒されていたのです。世界中の人がパリを愛するように、ユリアヌスもまたパリを愛した人の1人でした。

シテ島の裁判所、かつてこの地にユリアヌスの邸宅があったと推測されている(店主撮影)

ユリアヌスによって、ガリアがゲルマン民族からの脅威から一時的に脱したのをみたコンスタンティウス帝は、今度はユリアヌスを東のペルシャ軍を倒すように命じたのでした。ユリアヌスの軍団は、居心地の良いリュテキアを離れ、メソポタミアの砂漠でペルシャ軍と戦うことを拒み、コンスタンティウス帝に叛旗を翻しました。兵士たちは、ユリアヌスを推戴し、ユリアヌスはローマ皇帝となったのです。もちろん、コンスタンティウス帝はこれを許すはずがなく、ユリアヌスの軍団に決戦を挑んだが、幸いにコンスタンティウス帝は病に倒れ、亡くなったのでした。

こうしてユリアヌスはただ1人のローマ皇帝となり、哲学者としての叡知を政治に活かしました。彼は、すべての宗教を公認し、多神教の信者、ユダヤ教徒に対する弾圧政策を破棄しました。ユリアヌスは自身が多神教の神を信じ、キリスト教を全く信じていないからといって、キリスト教を迫害することはありませんでした。

その後、ユリアヌスはペルシャ征伐に赴き、アンティオキアに入城。勝ち進み、ササン朝ペルシャの首都クテシフォンまでせまったところで、31歳の若さで戦死したのでした。
ついに、彼が愛したルテキアに帰る日がくることがないまま、短い一生を終えたのでした。


かつては公共浴場であった、パリの中世美術館にはユリアヌスの彫像が飾られている(店主撮影)

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