Parisii パリシーは時を越え古代ギリシャ・ローマ世界と出会うギャラリーです。
2000年以上前の古代ギリシャ、古代ローマ時代に実際に使われた大変貴重な貨幣(古代ギリシャコイン、ローマコイン、ケルトコイン)を専門に販売しています。
作品の選定には歴史的価値・芸術的価値に重きを置き、厳選に厳選を重ねております。
過去に販売した作品、当ギャラリーのコレクション等も、古代コイン図鑑として年代順に掲載させて頂いておりますのでご参照下さい。
また古代ギリシャ・ローマ世界に関連するアンティーク作品等も販売しております。こちらもお楽しみ下さい。


私の手のひらに一枚のネロの銅貨がある。
逞しい美しさに満ちたネロの肖像を裏返し、ウラ面のアラ・パキス(平和の祭壇)の静謐さに浸る。

すぐに、学生時代に初めて訪れたローマ、アラ・パキス美術館での思い出が蘇ってきた。
エジプトのオベリスクが美しいポポロ広場から、コルソ通りを下りて、右に曲がると、アウグストゥス霊廟があり、その向かい側、テヴェレ川岸には、忽然とアラ・パキス美術館が建っていた。

この時、なぜアラ・パキスだけを展示した美術館が川岸にぽつんと建っているのか疑問に思った。
この疑問の答えは、後に、1枚のネロの銅貨との出会いをきっかけに知ることとなったが、アラ・パキス美術館の門を初めてくぐった時はまだ知らなかった。

美術館の中に入ると、観光客が少ない2月ではあったが、見物人は学生の私ただ一人。
ガラス張りの建物の中には巨大なアラ・パキスが整然と建っていた。
冬の曇り空であったため、大理石の象牙色の美しさが引き立っていた。
夏の晴れた日、ガラスから太陽の光がアラ・パキスに降り注ぐのもさぞかし素敵だろうと思った。

(アラ・パキス美術館のアラ・パキス)

アラ・パキスの周りをゆっくりと一周しながら、祭壇に彫られたアウグストゥスの祭儀行列のレリーフを見た。
アウグストゥスの肖像は欠けており、アウグストゥスの表情は読み取れなかったが、彼に連なる多くの親族や神官たちの表情は、アウグストゥスが築き上げた権力に畏敬の念を抱き、それが未来へと繋がることを確信しているかのようであった。

(アラ・パキスのレリーフ、一番左の欠けている肖像がアウグストゥス)

この時、美しく巨大なアラ・パキスを目前に、私の中にも自然と、アウグストゥスを敬う気持ちが湧いていた。

しかし、後に私がアラ・パキス美術館で感じたアウグストゥスへの敬意はムッソリーニによる仕掛けであったことを知った。

現在、アラ・パキス美術館で見ることができるアラ・パキスは、そもそもコロッセオのように古代からずっと同じ場所に建ち続けてきたモニュメントではない。
現在のアラ・パキスは、1938年にムッソリーニがファシストのモニュメントとして利用すべく、すでに16世紀から発掘されていたアラ・パキスの断片や1930年代に行われた発掘を元に再建したものである。

元々のアラ・パキスは、アウグストゥスが前9年1月30日(アウグストゥスの妻リウィアのおそらく50歳の誕生日)にカンプス・マルティウス(マルスの野)の北部に完成させた祭壇である。
アウグストゥスがローマにもたらした平和を祝福し、これからのローマの平和を祈願するための祭壇であった。
毎年この祭壇の中で、神官やウェスタの巫女たちによって、平和の女神パックスに生贄が捧げられていた。

このアラ・パキスが建っていた地域は、早くも前28年(アウグストゥスが36歳)に建設が始まったアウグストゥスの霊廟があり、アウグストゥスの神性を空間で具現化するエリアであった。

(現在のアラ・パキス美術館の場所と実際にアラ・パキスが建てられていた場所)

また、アラ・パキスの方向を向いて建っていたのが、アウグストゥスがエジプトから持ち帰ったオベリスクを利用したホロロギウム(日時計)であった。オベリスクの影が針の役割を成し、文字盤の表面には月と日と時間を表す線が引かれていたという。
秋分の日にあたる9月23日のアウグストゥスの誕生日には、オベリスクの影がアラ・パキスの入り口に指すように計算されていたというのだから、驚きである。

(実際のアラ・パキスとホロロギウムのイメージ図)

アラ・パキスの断片と思われるレリーフはすでに16世紀から発見されていたが、この時はアラ・パキスのものであるとは断定されていなかった。
1903年になり、ドイツ人考古学者フリードリッヒ・フォン・ダーンがこれらの断片はアウグストゥスのアラ・パキスのものであると断定し、発掘をイタリア政府に要請した。
さらに多くの断片を掘り出したが、建物の崩壊の危険から発掘は途中で中止されていた。

そしてファシズムの時代が到来した。
1937年、アラ・パキスの大規模な発掘が行われ、展示公開されることとなった。
これは当時のファシスト政権ムッソリーニの政策に深く由縁する。

ファシスト政権はイタリアの全体主義を推し進めるために、古代ローマ文明の歴史的首位性を強調する政策を行った。
ファシスト党の名は古代ローマのファスケス(木の棒を束ねて革紐で縛り、そこに斧を挿入したもので、独裁官や執政官などの命令権の象徴)に由来し、ファスケスを党のシンボルとしていた。
ムッソリーニが政治の道具として、特に力を注いだのが建築であり、かつて古代ローマの皇帝たちが行ったように、建築物によって大衆を扇動していった。
この時代の建築はファシズム建築とよばれ、現代においても見る者を圧倒し続けている。

さらに、ムッソリーニは自身が古代ローマ初代皇帝アウグストゥスの再来であるかのごとく、都市ローマを刷新した。
ローマの多くの地区で再開発が行われ、古代と現代が融合する都市ローマが創られた。
現在の古代ローマ観光の基礎をつくったといっても過言ではない。

これら政策の一環として、1937年、ムッソリーニ政権はアウグストゥス生誕2000年を祝福する、「アウグストゥスのローマ性」展をローマの市立展示場で行った。

1937-1938年「アウグストゥスのローマ性展」のポスター

「アウグストゥスのローマ性展」が行われた市立展示場

この展示は古代ローマ文明が持つ時代を超えた帝国価値を称賛し、古代ローマとファシズムの普遍性を訴える目的で開催された。
1938年5月、ヒットラーがローマに訪問した際には、この展示をムッソリーニと共に観覧している。

そしてアウグストゥス生誕2000年を祝するこの展示のフィナーレとして企画されたのがアウグストゥスのアラ・パキスの公開であった。
アウグストゥスのアラ・パキスはファシズムのモニュメントとして再び地上で息を吹き返すこととなった。

ムッソリーニは、アウグストゥスの霊廟の前にアラ・パキスの展示場を設置することに決定を下した。
当時アウグストゥスの霊廟地区は住居が立ち並んでいたが、これらの住居を取り壊し、アラ・パキスの展示場を建設することで、この地区をアウグストゥスの神性に染めることに徹底した。

そこでバラバラであった、アラ・パキスを再建するにあたって、参考にされたのが、アラ・パキスの外観が刻まれた唯一の古代史料、古代ローマコインであった。
アラ・パキスが刻まれたコインにはネロとドミティアヌスのものが存在する。
最初にアラ・パキスとARAPACISの文字をコインに刻んだのは、アウグストゥス帝直系の最後のローマ皇帝であるネロであった。


アラ・パキスが刻まれたネロのアス銅貨 65年発行

ネロのコインに刻まれたアラ・パキスは長方形で、2段の基礎と最上部にはコーニス(軒)が確認できる。
このタイプのコインに刻まれたアラ・パキスは外壁の装飾が2層になっており、
再建されたアラ・パキスも人物や神々が刻まれた上部と植物文様の下部の2層となっている。



工事期間わずか1年半ほどで、ムッソリーニのアラ・パキスは再建された。
1938年、アウグストゥスの誕生日である9月23日に、アラ・パキスの落成式が行われた。

再建中のアラ・パキス

1938年に完成させたヴィットーリオ・モルプルゴ設計のアラ・パキス展示場。 アラ・パキスを覆う建物自体もアラ・パキスをイメージしてつくられた。建物の道路側基礎部分には『アウグストゥスの業績録(res gestae divi avgvsti)』が刻まれた。

アラ・パキス落成式の日、アラ・パキスの横を歩くムッソリーニ(右から2人目)。

このアラ・パキス展示場は、ようやく2006年に、アメリカ人建築家リチャード・マイヤーによって新たに設計改築され、アラ・パキス美術館として開館し現在に至る。
ムッソリーニの時代に建物基礎に刻まれた有名な『アウグストゥスの業績録』はそのまま残されている。
『アウグストゥスの業績録』はアウグストゥス自身が遺したとされる彼の業績が書かれた碑で、アウグストゥスの時代を知る最重要史料である。
アラ・パキスについての記述もこの業績録の中に記されている。

(現在のアラ・パキス美術館、ムッソリーニの時代のアウグストゥスの業績録の壁は今も残されている)


そして、このアウグストゥスの業績録が刻まれた外壁は、ファシズムの時代を描いた名作ベルナルド・ベルトルッチ監督、1970年の映画『暗殺の森』のシーンに使われたことでも有名である。
『暗殺の森』はファシズムの台頭と崩壊を描いた傑作で、映画の中で古代ローマのモニュメントが象徴的に使われているため、ここで紹介したい。

1970年イタリア映画『暗殺の森』のポスター

映画『暗殺の森』(原題:Il conformista)はある一人の男を主人公としてファシズム政権の台頭から崩壊までを描いている。
日本語題は『暗殺の森』という、サスペンス要素を強調した題が付けられたが、イタリア語原題:Il conformistaは「順応者」という題である。この題は映画の原作であるアルベルト・モラヴィアの小説(1951年)の原題:Il conformistaのままである。(日本では『孤独な青年』として出版された。)

主人公マルチェッロは、幼少の頃に自分を誘惑してきたリーノという男を殺してしまった経験から、青年になると、「正常に」生きたいと強く願うようになった。
彼は正常な生き方として、この時代の空気に順応し、平凡な結婚をし、さらにはファシスト党員になることを選んだ。
ファシスト党諜報部員になった彼は、ある人物の殺害を命じられ、パリへと向かう。
マルチェッロはパリで暗殺標的者の妻と恋に落ちたが、彼は自身の人間的な感情は一切停止させ、ファシスト党員としての任務を全うしたのだった。
マルチェッロはローマに戻り、その後ファシスト政権は崩壊した。
ファシスト政権の終焉後、ひっそりと暮らすマルチェッロは昔の友人とコロッセオの中を散歩中に、ある人物に出くわす。
ある人物とは、彼が子供の時に殺してしまったリーノであった。
リーノは生きており、死んだと思っていたのは間違いであったことを知る。彼をファシストへと導いていった幼少の罪悪は空事であったことがわかり、彼の人格は崩壊していく。
彼の「正常な」生き方とは、かげろうにすぎなかったのだ。

このストーリーの中、古代ローマのモニュメントがファシズムの台頭と崩壊のシンボルとして使われている。

まずはファシズムの台頭のシンボルとしてアラ・パキス展示場である。
マルチェッロの新しい人生の幕開けの場面。

1970年イタリア映画『暗殺の森』、ジャン・ルイ・トランティニャン演じるマルチェッロがアラ・パキス展示場の前を通る場面

970年イタリア映画『暗殺の森』

マルチェッロは婚約者の元に、花束を持って、アラ・パキスの展示場の前を、何のためらいもなくすたすたと歩いていく。
マルチェッロが前を歩く壁はアラ・パキス展示場外壁『アウグストゥスの業績録』である。
このアウグストゥスの業績録が彫られた外壁は、古代ローマ時代からの本物ではなく、ムッソリーニがアウグストゥスの威光を政治に利用するために建てたレプリカである。
つまりこの外壁はファシズムの象徴的なモニュメントである。
マルチェッロがファシズムに順応した人生をこれから突き進んでいくことがこの背景の外壁によって示唆されている。

そして映画のラスト、ファシズムの崩壊、マルチェッロの人格崩壊のシーンに、ローマのコロッセオが使われている。

1970年イタリア映画『暗殺の森』、コロッセオが使われたシーン

ファシズム政権の終焉後、マルチェッロは目に生気を失った暗い生活を送っている。
ある夜、彼はコロッセオの回廊を散歩中、昔、自分が殺してしまったと思っていた人物と遭遇し、彼が死んだと思っていたのは単なる思い込みであったことを知り、正気を失っていく。
ただ一人となったマルチェッロは、コロッセオの階段で放心し座り込んで映画は幕を閉じる。

ローマのコロッセオ(円形闘技場)は、80年、ティトス帝の時に完成してから、ずっと同じ場所に建ち続けている、古代ローマの象徴と言える、本物の古代ローマの建造物だ。
廃墟でありながらもこの建築は、未だ都市ローマの中心で輝き続けており、都市ローマの象徴でもある。
いまだ崩壊しないコロッセオの中で、古代ローマの威光を笠に着たファシスト政権に人生を順応させたマルチェッロのみが崩壊していく姿は悲しく、そして美しい。

コロッセオは人間が創り上げていく歴史の象徴であり、マルチェッロはそれに翻弄される人間の象徴だ。

人間が作っていく歴史は醜いことが多い。
しかし、個々の人間自身や、人間が作り出すモノ自体は、好き嫌いは別にして、それ自身は美しく、堂々と存在している。
古代コインであったり、建築物であったり、映画だったり、すべてのモノが。
モノは、私たちが世の中の悪事を見ることによって忘れてしまいそうになる、人間の存在自体が美しく神秘であることを思い出させてくれる。
私の場合は、特に古代コインに存在神秘を感じるが、人それぞれ何か惹かれるモノがある。
今回、1枚のネロのアラ・パキスのコインを通して、私が古代コインを愛する理由は、その作品の持つ存在神秘にあるのだと気づかされた。