リボリアンティークスの日本文化研究事業として、1989年に発行された、写楽、並びに北斎の研究書、
『写楽改北斎』を、より多くの方々がご覧いただけるよう、加筆・修正し、30年ぶりにデータ化・復刻致しました。
ご一読いただけましたら幸いです。
加筆・修正者 リボリ日本文化研究室 室長 中村みのり
2018年10月26日
【写楽改北斎】 (仮説・北斎が写楽である可能性が一番高い人物である) 中村公隆著
【写楽改北斎】で解き明かす、幻の絵師・写楽の謎とは。
謎1 なぜ、生まれ・履歴はおろか俗名すらわからないのか?
謎2 なぜ、作画期間がわずか10ヶ月に限られるのか?
謎3 なぜ、習作期もなく突然に豪華な雲母摺で現れたのか?
謎4 なぜ、突然筆を折ったのか?
謎5 なぜ、版元・蔦屋重三郎だけから作品発表したのか?
謎6 なぜ、短い10ヶ月間に140種もの作品を出したのか?
謎7 なぜ、海外で三大肖像画家と再評価されたのか?
謎8 なぜ、東洲斎写楽と命名したのか?
謎9 なぜ、途中で落款が東洲斎写楽から写楽になったのか?
謎10 なぜ、左手で書いたかのように落款が歪んでいるのか?
謎11 なぜ、写楽はほぼ役者絵しか描かなかったのか?
謎12 なぜ、女形は描いても女性を一人も描かなかったのか?
謎13 なぜ、役者に嫌われてまでリアルに、真を描いたのか?
謎14 なぜ、人気役者だけでなく端役の役者まで描いたのか?
謎15 なぜ、写楽は歌舞伎を詳しく知っていたのか?
謎16 なぜ、黒雲母摺大首絵のみが特に優れているのか?
謎17 なぜ、10ヶ月で4度も形式が変わり質が下がったのか?
謎18 なぜ、デフォルメし時代を先取りした絵が描けたのか?
謎19 なぜ、摺りの異なった異版が多いのか?
謎20 なぜ、確実な肉筆画が一枚もないのか?
謎21 なぜ、関係者がかたくなに口を閉ざしているのか?
謎22 なぜ、写楽の絵が売れたかどうか判らないのか?
謎23 なぜ、師匠も弟子も門人もただの一人もいないのか?
謎24 なぜ、現存する写楽の作品が極めて少ないのか?
東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)
生没年不詳。
江戸時代の浮世絵師。
寛政6年(1794)5月、突然に、浮世絵師として、最も豪華な、雲母摺大錦判28枚を引っ提げて、版元・蔦屋から、華麗なるデビューを果たし、作画期、僅か10ヶ月、翌年1月、忽然と姿を消した、正体不明の謎の絵師。
生まれ、育ち、画系等も含め全てが謎で何も訳からぬ、幻の絵師として、その正体捜し、謎解きが邪馬台国の謎と並ぶ、日本文化史上、二大秘密とされている人物。
その謎ときに、多くの研究者が挑戦し、写楽別人説として、
北斎・歌麿・豊国・清長・清政・長喜・春艶・春英・春好・重政・文調・栄昌・如圭・蔦重・応挙・抱一・一九・京伝・江漢・文晁など、
すでに30人以上の名前が挙がっているが未だ、正体が明らかにされていない、浮世絵界最大の、スーパースターであり、現代人が江戸文化を考え、楽しむ為の恰好な標的、注目の的になっている謎の人物である。
【写楽改北斎】(しゃらくあらためほくさい)
浮世絵のみならず、日本美術を代表する、2人の絵師、写楽と北斎が同一人物であるとする、写楽=北斎説は、かなり古くから、哲学者の由良哲次氏をはじめ、横山隆一氏、最上三郎氏、近藤啓太郎氏、伊藤勝氏など、多くの研究者たちが取り上げ、論文や、小説もすでにいくつか、発表されており、北斎改名についても樽崎宗重氏、安田剛蔵氏、瀬木慎一氏、永田生慈氏などの優れた数多くの研究が発表されている。今回、先人の研究に最大の敬意を表しつつ新しい視点で、北斎=写楽説を捉えてみる事にする。先ず、前提として、写楽は北斎であると仮説を考察する時に、
第一に、写楽をなぜ、他の絵師と考えるのか。
第二に、北斎をなぜ、他の絵師の中から、選ぶのか。
この基本的な二点についての考え方の立場を、本論に入る前に最低限、明らかにする必要があると考える。
第1章 写楽がなぜ、他の絵師なのか。
今日、浮世絵を、日本を代表する美術と誰もが認識している。
しかしそれは歴史の正当な評価であり、真実なのでは有るが浮世絵が作られた時代には、浮世絵は芸術品ではなく、日常生活品(図7)、手工業生産品として扱われていたのである。
当時としても本絵師が描いた美術品の肉筆に対し、江戸町人文化が花開き、消費が庶民に拡大し大量に消費が始まり、町人の生活水準が向上するに伴い生まれた、肉筆=一点物に対する、大量生産品の絵、これが木版・浮世絵の本質で、大量に作る事が目的なのである。この点が現代版画とも異なり、木版の味や表現の豊かさで、手法として版画を選び、数量は二次的というのでもなく、正に浮世絵は江戸時代の手づくりではあるが、印刷の最先端技術、手工業生産品なのである。例えとして当時の木版技術は、前に出版された他人の絵本の人物部分だけを北斎が書き直し、そこを埋め木をして新しい本(図8)として出版するなど、早く、安くという現代と変わらぬ、商業ベースで技術は革新していたのである。この様に版元のもとに、絵師・彫師・摺師が係り生産され、その上に資金・流通・販売と、現代の企業と変わらぬ、行動原理により初めて一枚の浮世絵が、日の目をみるのであり絵師一人の力で浮世絵はどうにも成るものではないのである。(図9)
しかしこの点が一番重要な事柄であるが、職人、一人一人ではどうにもならない様に見えても、手づくりの江戸文化、つまり浮世絵が代表する手工業生産品、言ってみれば、名もない職人達の仕事に、職人の誇りが極まれば、浮世絵で立証されたように、歴史の審判により、時の有名人、一流と言われる絵師達に、芸術家たちに、無名の職人の仕事が勝つ事が出来るのである。
芸術と仕事を考えた時、正に現代にも通じる批判であり、絶対に忘れてはならない事ではないだろうか、将来の浮世絵なる物を今、日常品、生産品として、作り手も、受け手も、軽んじていないか。浮世絵が今、私達に、教えてくれるものは誠に大きい。
職人、誇り高き、素晴らしき江戸職人、今も生き続ける職人気質に、時間がかかりすぎたとしても、正当なる評価が下されたことが、どれだけ名もなき者や、現代につづく職人の励みになっていることだろうか。
浮世絵の世界的評価は、浮世絵だけの話ではない、正に「道」と言う、日本の思想への評価なのである。それぞれの職人道・商人道・それは「ひとのみち」、何ものにもまさる物なのである。
現代は名を求めすぎてはいないだろうか。社会への奉仕は、名を求めるものではけっしてないのであり、高き理想、夢を果たすには名を求めてはいけないのである。
だから、結果として、名を求めなかった『写楽』に永遠の憧れを、日本人の理想の姿を見るのであり、ここに写楽=北斎説を取り上げた、究極の問題意識がある事を付け加えたい。
写楽の問題に戻ると、浮世絵という枠組みを考えると、版元・蔦屋が、なんら画歴の足跡のない、実績のない人物を登用する事は、仕事である以上、企業家として絶対にありえない、北斎・歌麿だれひとりとして下積時代のない浮世絵師などいないのである、それがしきたりであり、道なのである、いかに版元・蔦屋重三郎(図10)といえども自分勝手な事は出来ないのである。
まして写楽は、歌麿といえども、本の挿絵(図11)細判と、長い下積みを経ての全盛期に、やっと何点か出すことの出来た、最も豪華な作品、雲母摺大錦判(図2)で、デビューをしている。
その上、大量の組物、最初から同時に、28点を1点当り、当時の最低摺り単位を200枚と仮にすれば、最低で5600枚がいっせい販売され、僅か10ヶ月の活動期に写楽は合計140数点、最低で28000枚を出版している事からして、絵の才能だけの話ではなく、木版は肉筆と異なり、描いてから出版まで工程と時間がかかる(図12)わけで、例えば納期ひとつをとっても、この浮世絵界のしきたりを知る者、つまり、すでに実績のある他の絵師の別名である以外、考えられないのである。
くり返すが、わざわざ木版を何版も彫りおこして、10枚や20枚摺ったところで、浮世絵は安い物なので採算が取れないことから、最低摺り単位は必ず摺っていると、考えるのが自然なのである。
海外で評価されるまで、写楽は全く無名であった為に大切にされる事も無く消失しかかった事から、極めて写楽の現存品は少ない、その事から現代の写楽は極めて数が少ないというイメージで考えて、そんなに多く摺る事はないと、考えてはいけないのである。その上、残されている数少ない写楽の作品を見ると摺りの異なるものが見られるので、摺り単位が複数と考えるべきで、実数はこの数字よりかなり多いといえる。
つまり、江戸時代の人口、経済規模でこの大量さを考える時、正に個人を中心とした物の見方で写楽を捉えることはできない今でいうと大企業的事業なのである。
時代時代に於いて、素人がやれる事と、やれない事があるのである、まして、写楽の不思議な謎を解こうとするとき、ひとつの謎には素人だと考える事が出来たとしても、謎と謎との辻褄合わせをしていくと、どうしても玄人の絵師・職人画工の姿が、浮かびあがらざるおえない結果と成るのではないだろうか。
以上の事から、写楽が何も浮世絵に実績の無い人物である事は有りえ無い、つまり他の絵師の別名で有るとする立場に立つものである。
第2章 なぜ、北斎なのか。
北斎がどうして、写楽と名乗ったかについては、次の第3章・本論にて考察するもとして北斎を数多くの絵師の中から、写楽であると、選び出した理由は、浮世絵の評価のされ方の中に、写楽の発見のされ方の中に、隠されていたのである。
浮世絵が現在どうして、高い評価を得るにいたったかの歴史を見ると、海外からの指摘、評価から始まったのである、日本に於いて、浮世絵はあまりに日常的すぎて、その芸術性に気が付かなかったのである。
この点は、大変重要なことで、海外の評価を金科玉条とするという意味ではなくして、浮世絵に対して、日本人はあまりにも慣れすぎていて、浮世絵はあたかも、水や空気のような存在で、今の時代が平和に、慣れすぎて、その有難さ尊さに気づかずに、ついには、評価することすら出来なくなってしまうのと同じで、浮世絵があまりに日本的な為に、身近かすぎて、かえって純粋な評価が下せないのである。
その時は謙虚に、外部からの新鮮な判断や、指摘を重要視すること、そこから学ぶ姿勢が大切なのである。
浮世絵は、日本に於いて、近代印刷技術の導入により、また題材が時代に合わなくなったことにより、陳腐化してしまい、顧みる人もいない時、西洋では、日本から輸入され陶器の、パッキングに使われていた北斎の『北斎漫画』(図13)が発端となって、ジャポニズムといわれる、日本熱が起った。
これが、浮世絵が、初めて、美術品、芸術品と認知された、記念すべき幕開けでもあったのである。ジャポニズムの道を開いた、切っ掛けが、『北斎漫画』と言われている。ここで、大切なことは、北斎という名前で評価された訳ではない点である、つまり、慣れという垢の付いていない、冷静な、海外の眼が、名前ではなく、まして画歴や、経歴、肩書き、など無関係に、その絵の力のみ、正に、北斎の実力に、憧れた、それがジャポニズムを生んだのである。北斎に憧れる気持ち、北斎を好む気持ちがジャポニズムの源流にあり、北斎によって啓発された日本好みが他の絵師たちの作品(図14)も、次々と漁っていったのである。
その時しかし、評価の基準が、実は北斎を評価の基準にしている事に気付く者がいないだけの話である。
西洋では、真っ白な、日本文化という布地に、まっ先に、北斎色が付いたのである。それ以後、つねに北斎の影が付き纏う事から、逃げ出す事はもう不可能なのである。
ジャポニズムという日本熱を表すに、ゴッホが日本を愛し、浮世絵をそのまま油絵に模写した(図14)事がよく言われるが、そのゴッホが一番尊敬したのはやはり、北斎で、ゴッホが弟テオへの手紙に北斎の富士三百景(富嶽三十六景か)を入手するように頼んだり、『大浪』(図55)のデフォルメした表現の素晴しさを、北斎の描いた波を爪だと言った弟テオに説明したり、北斎をドミエと並ぶ、あらゆる芸術家のうちで最も巧みな肖像画と語り、後に写楽が世界三大肖像画家と再評価される事を、既に暗示しているのである。
又、絵の世界だけでなく音楽の分野にまで影響し、ドビュッシーが北斎の『大浪』を見て、その感動から交響詩「海」を作曲したと言われる程なのである。
そしてついに、海外で、素晴らしい絵師を見付けだす、日本ではとうに忘れられているその絵師を、ヴェラスケス、レンブラントと並ぶ、世界三大肖像画家と絶賛するのである。確かに、その天分を、版元、蔦屋重三郎に次いで、見抜いた結果にはなるのだが、その判断基準は、自ら北斎色に染まっている事に、気付かないだけで、実は憧れる北斎と本質的に全く同じだから素晴らしいと、その無名の絵師を絶賛したのである。
北斎を好んだ目で、その好みで選んだ無名の絵師、その名が写楽だったのである。北斎によって目を開かされた、西洋人が、もっとも素晴らしい絵師として、写楽を見つけ出した事は、もっとも、北斎らしい絵師として、写楽を見つけ出した事なのである。日本人が名前で作品を見ている時に、名前にとらわれずに、絵の力だけから、先入観のない、但し判断基準に、北斎色の付いた西洋人の眼が、写楽に北斎と同一の天分を感じとった、写楽(図2)と北斎(図55)の描く対象物は変わってもデフォルメする力の共通点に同一、との秘密の臭いを嗅ぎとっていたのである。
つまり、写楽は海外で見付け出される迄日本に於いて、すでに忘れられ、全く無名化しなんの値打ちも無いと、消滅しかかっていたにもかかわらずである。事実、海外で写楽が評価された時日本に写楽は数枚しか残っていなかった。写楽が北斎であるからこそ日本ではなく海外で、写楽は見い出される事が、初めて可能だったのである。
そして、単純に考えても、200年以上という長い時間がたち、歴史の評価が、かくも正確に下された後の今日、天才・写楽の天分に匹敵する力を持っていた絵師が、当時、果たして何人いたと言うのだろうか。
北斎の名を挙げる事が、もっとも自然なのではないだろうか。その意味からも、自ら『画狂人北斎』(図40)と名乗った、その生きざまに、写楽の影を見るのである。以上の事から、写楽は、写楽を見い出した、ジャポニズムの原点である、『北斎漫画』の絵師・北斎をおいて、他には本質的にありえない、まず北斎から考えるべきであるとする立場に立つものである。
第3章 本論 北斎はなぜ写楽と名乗ったのか。
第1節 北斎の改名について。
北斎は宝暦10年(1760)9月23日、本所割下水にて生まれ、嘉永2年(1849)4月18日、「悲と魂て、ゆくきさんじゃ、夏の原」という辞世の句を残し、90年間の長い生涯を終えた。
一般的に、北斎のことを、『葛飾北斎』(図15)と何のためらいも無く呼ぶが、北斎が北斎と名乗るのは、寛政8年に『北斎宗理』(図16)と副号に使ったのが最初で、その後、北斎を使う期間は意外に短く、その上、不思議な事に『葛飾北斎』落款の作品は、非常に少ないのである。そうして一生の間に、30以上も画名を変え住居も90以上も変えた、大奇人と言われている。
そして徳川家ご用達御鏡師、中島伊勢の養子と成り、一時、鏡師に入るが、その後幼い北斎の実子に嫡子を譲っている。此の、改名、転居、嫡子の3点に、写楽=北斎説の新しい視点が隠されていた。
北斎の改名は30を越すと言われるが、実のところ、写楽が活動した、寛政6年7年を除いて全て、「〇〇改〇〇」と改名宣言とわかる画名を必ず使用し、画名の連続性をもたせている。つまり勝川派に19歳で入門し、初号を春朗と命名されたことから始まり、最後の画名卍を以て90歳で亡くなるまで、次の通りに改名していくのである。
① 初号 『春朗』(図17) 安永8年(1779) 20歳
②『春朗改 群馬亭』(図18) 天明5年(1785) 26歳
③『写楽』(図19) 寛政6年(1794) 35歳
④『宗理』(図20) 寛政7年(1795) 36歳
⑤『宗理改 北斎』(図21) 寛政10年(1798) 39歳
⑥『北斎改 戴斗』(図22) 文化12年(1815) 56歳
⑦『戴斗改 為一』(図23) 文政3年(1820) 61歳
⑧『為一改 卍』(図24) 天保5年(1834) 75歳
前記以外の北斎の別名は、前記の正式画名を基本に変化したもの
・「勝川春朗」 ・「叢春朗」 ・「勝春朗」(図3) ・「北斎宗理」(図16) ・「俵屋宗理」 ・「北斎雷震」 ・「先ノ宗理北斎」(図5) ・「北斎」(図6) ・「画狂人北斎」(図40)
・「九々蜃北斎」 ・「葛飾北斎」(図15) ・「鳥居清信画風葛飾北斎写」(図43) ・「北斎辰政」
・「東都北斎戴斗」(図8) ・「葛飾前北斎戴斗」(図7) ・「葛飾戴斗」
・「北斎改為一」(図55・56) ・「前北斎為一」(図41・49・50・51・53・54) ・「葛飾為一」 ・「人まねする申のはつ春かつしかの親父為一筆」(図42)
・「不染居為一」(図47) ・「前北斎」(図45) ・「前北斎 ㊞=為一」(図46) ・「北斎為一」(図52) ・「月痴老人為一」(図48) ・「前北斎卍」(図44)
・「前北斎事画狂老人乞食坊主卍」 ・「齢七十六前北斎為一改画狂老人卍」(図12) ・「七十七齢前北斎為一改画狂老人卍」(図12)
・「八十八老人卍」(図26) ・「八十九老人卍」
などであり、その他には、全く別の変名を付けたもの
・「万里」 ・「是和齊」 ・「魚仏」 ・「時太郎可候」(図9) ・「可候」(図29) ・「鏡裏庵梅年」(図25) ・「天狗堂熱鉄」(図27) ・「無筆八右衛門」(図28)
・「(隠落款・北斗七星の図形)」 ・「三浦屋八右衛門」 ・「俗姓中島鉄蔵藤原為一齢八十九歳」
などであるが、
この変名は主に画名というより、戯作名とペンネーム(図25・27)と、幼名(図9)及び俗名(図28)をもじったもので、正式画名を使用中に、一時の変り名として使われ、使用例も一点のみか極少ないものが殆どで、改名というべきものではない。
つまり北斎は30以上改名した訳ではなく、重大な(意味)と時期に①春朗(初号) ②群馬亭(破門) ③写楽(家督) ④宗理(再出発) ⑤北斎(信仰) ⑥戴斗(信仰上)
⑦為一(還暦) ⑧卍(長寿祈願)と七度、改名しただけなのである。
従来は、寛政6年に春朗から宗理に変わる画名の空白期がありその間が写楽だと言われていたが今回明らかにした点は、北斎の改名は寛政6年7年を除き必ず「〇〇改〇〇」と改名宣言し画名に連続性をもたせ、その改名宣言した名だけが正式の改名であり、そして改名③『 写楽』と改名④『 宗理』の上部に空白がある事がわかった事である。
第2節 北斎は絵師をすてている。
北斎は、では何故、寛政6年・7年の時のみ「○○改○○」と改名宣言をしなかったのか、ここが写楽と名乗ったとする謎解きの最大の謎である。
実は、北斎は職業絵師を一度あきらめ、挫折したが、再び強い志を持って再スタートしていたのである。
その再出発をする、心の整理、ある大切な思い入れから『写楽』と名乗ったのである。
重大な、その経緯を考察すると、北斎は幼名、時太郎といった。母は吉良家・家老・小林平八郎の孫娘といわれ、その為、北斎は赤穂浪士の討ち入りを描く事(図29)を嫌い、その作品は少ないといわれる。そして貸本屋の小僧をし、木版彫刻を学び彫師の見習いを経て6歳頃から好きな絵の道に進むため、勝川春章に19歳で入門し、師匠の名をもらい『春朗』と初号を名付けられた。
しかし、北斎は天明5年頃(1785) 26歳頃、飯島虚心著「葛飾北斎伝」などによると、兄弟子、春好との不仲から勝川派を破門される、そこで天明5年(1785) 26歳、自ら『春朗改群馬亭』(図18)と、初めて改名し勝川派を出た。
しかし、勝川派を破門され、仕事も減り、前記「北斎伝」によると、絵師でありながら生活の為に、七色唐芥子売りなどをせざるおえない状態にまで落ち、その姿を先師、春章に見られ、男の面目すら失っていた。
丁度、その頃、叔父の中島伊勢に何らかの事情が発生し、跡取りとして北斎は、徳川家御用達、御鏡師中島伊勢の養子と成り、絵師を捨てて、鏡師に入った、時は天明7年(1787)28歳、北斎は、一度絵師を捨てたのである。
※資料・馬琴あての北斎の手紙に北斎の事を書いた馬琴の書入れがある。(国会図書館所蔵より)
「壮年その叔父御鏡師中島伊勢が養子になりしが、鏡造りのわざをせず、その子をもって職を嗣せしが、そは先だて身まかれり」とある。
馬琴は北斎と仕事上深い付き合いがあり(図39)北斎の事を良く知っていた。
鏡師に入ったばかりの為に、天明8年(1788)北斎の確実な作品は残されていない。
徳川家御用達の御鏡師は、帯刀を許される程位が高く、まして、中島家は、『寛政武鑑・寛政七年刊・御書物師 出雲寺文五郎版』(図30)に記載されており、その記載内容から御目見・御拝領地を許されるなど町人でありながら、武士と同格扱いでその上前記『寛政武鑑』に御絵師・狩野家と同列に記載されている事からも、職業絵師の兼務など出来るはずはないのである。
しかし北斎は、2年が経つ間に後継の件も落ちついたのか、北斎の血がどうしても絵を書かせるのだろう。職業絵師は無理として、いうなれば趣味としてででも、もう一度絵を描きたいと思ったのではないだろうか。
そこで破門された時とは、身分も格段と高くなり、状況も一変した北斎は、好きな絵の為に、春章師匠と話を纏め、勝川派にもどるというより、職業としてではなく、旦那芸として、春章その人の客分扱いのような形をとり、前名、春朗を使い、寛政元年(1789)から作品を、再び出したのではないだろうか。年齢は30歳の時である。
画名を群馬亭ではなく、春朗(図31・32)を使ったのは、群馬亭を名乗れば、改名宣言をした、正式な名前であるからには、職業絵師にもどったと取られる訳で、幕府に対しても、中島家に対しても絶対に使う事が出来ない事と、春朗として居けば、一度やめた名前であり、遊びであるとか、前に書いておいたものであるとか、何んとでも言い訳が出来ると考えたのではないだろうか。
つまり、その時の春朗は正式名ではないのである。
しいて言えば、正式名は群馬亭で、その絵師を正式にはやめている最中なのである。
だからこそ、群馬亭と名乗った作品は、鏡師に入った後ではないのである。
しかし、寛政4年(1792)末、北斎33歳の暮、師匠春章が亡くなってしまう。
そこで、春章個人とのつながりであった春朗は、勝川派との関係に意味がなくなり、無落款(図33)か、叢春朗に、取りあえず、寛政6年(1794)の春まではしていたのである。
この多少複雑な事情を、従来、北斎は勝川派を破門されたまま、縁が切れたとの解釈であるがそれでは、北斎が春朗という画名を豊丸という絵師に譲っているが、勝川派に命名してもらいその上、師匠、春章の名前から取った、春朗という名を、破門されている北斎が、自由に出来るわけもなく、矛盾であるが、今回の解釈によると、そのような矛盾も生まれない。
また、前記「北斎伝」によると天明7年(1787)の七味唐芥子売りの話に「先師春章夫婦・・・・・・・・」とあり、天明7年(1787)には、すでに破門されていたと思われるのに寛政元年(1789)から春朗(図31・32)の名が再び見られる事実を群馬亭、落款と共に従来説明が不十分であったがこの点も今回、解決する事が出来た。
第3節 北斎は写楽と名乗った。
35歳の北斎は寛政6年(1794)いよいよ、運命の分かれ道、人生の踏ん切りをつけなければならない時が来たのである。
春章のもとでの曖昧な形での、自らの絵に対する態度からの決裂である。
春章の死を契機に、北斎は結局、鏡師より絵師を選んだのである。
しかし、それには、自分が否定し、捨てる、鏡師を、おそらく一番大切な、最愛の自分の幼い長男に、押し付けなければならない、嫡子とは現代では考えられない程、家という自由にならぬ重い重い責任がある。
その思いは、男として、父として、夫として、どんなであったのだろうか。
まして、一説によれば、この寛政6年頃に、北斎はその長男の母でもある、妻を亡くしていたのである。
後年、北斎は、その名の通り、北斗七星を仰ぐ、妙見信仰を信じ、また、卍という画名の由来も佛陀の印から取られた事からもしかり、深く宗教に入っていくが、その原点が、ここに、あったのではないだろうか。まして、その残された長男までが、若死をしているのであるから。
しかし、北斎はそのエゴを通したのである。
その為に、その子の為に、せめてもの父の気持ちが、職業絵師としての再出発には、浮世絵師より格が上である、俵屋宗理の名を貰おうとしたのではないだろうか。
そして、その由緒ある名前を譲り受ける間、当然そのような名を貰うには、時間とお金がかかるわけで、その間、いってみれば北斎にとって、愛児と共に過ごせる最後の時に、子に残す子の為の名を名乗った。
それが『写楽』なのである。
このことは作品上からも、はっきりしている。
つまり寛政6年(1794)春、黄表紙『福寿海旡量品玉』(図33) 蔦屋版を『無落款』で描いたのを最後に、寛政7年(1795)新春、狂歌本『狂歌 江戸紫』(図34)で『宗理』を初めて名乗るまでの間、ほぼ10カ月間、北斎の確実な作品は1点も残ってはいないのである。
それはその間、『写楽』と名乗っていた事に他ならないからなのである。
第4節 写楽は鏡である。
『写楽』とは文字通り、写すを楽しむもの、という意味である。
写すを楽しむもの、それは正に、北斎が我が子に押し付けてしまった鏡師、「鏡」のことではないか。
『写楽』=写すを楽しむもの=「鏡」
その時代には当然のことではあるが、写真など有るはずもなく、写すということは当時の人間には鏡に写すことが一番楽しみであったのであり、写す楽しみと鏡の連想は、当時の人間にはしごく自然なのである、写楽とは北斎が子に捧げた名前だったのである。
おのれは、鏡師をすて、絵師になっても、息子よ、我が父は、この仕事、鏡師を誇りに思うと、だからその証に、自らの画号としたのだとする事で、北斎は、自らのエゴの許しを、年輪もいかぬ、我が子にこうたのである。
こうして、心の安らぎを求めたのではないだろうか。
息子への父の思い、だからこそ、その結果が、写楽という何か神がかりの作品が、北斎の一世一代の意気込みと力の入った作品が生まれたのではないだろうか、北斎の改名の意気込みと、その気迫が必ず作品上に表れる事は、後年も、北斎が「〇〇改〇〇」とした時に、北斎の代表作が生まれていることからもはっきりしている。
『赤富士』(図56) 『大浪』(図55) 『北斎漫画』(図13・36) 『富嶽百景』(図24・35) など 「〇〇改〇〇」という落款は、作品数のごく少ない落款なのに、代表作は不思議と皆、そうなのである。
そして画名だけではなく、画法の上でも同じ気持ちから、北斎は、写楽としての最大の特長、黒雲母摺を考え出したのである。
黒雲母摺(図2)こそ「鏡」そのものなのではないだろうか、キラリと光る底に写し出される黒く沈んだ冷たさ、鏡を表現するに黒雲母摺以上の表現方法があるだろうか。
黒雲母摺の上に描く、それは、鏡の上に描くことであり、北斎にとっては、愛する我が子を描くことになりはしないだろうか、北斎の黒雲母摺は、息子のためだけのものなのである。
だからこそ、この時以外、北斎は、黒雲母摺を絶対に使わなかったのではないだろうか。
今日、黒雲母摺大首絵が写楽の大傑作と言われる所以が、実は此処にあったのである。
また、「東洲斎」とは、中島家が徳川家御用達、いってみれば、ご主人様の住む、千代田城からみて、東の、本所松阪町にあり、愛児が残り住む、中島伊勢宅という意味であり、その上、前記「寛政武鑑」によれば、当時、御鏡師は二家があり、上格の、御目見・御拝領地を共に許された、本所松阪町1丁目の中島家と御目見・御拝領地を共に許されない、格下の室町3丁目の村田家があり、所在地の位置関係から、ふたつの鏡師を区別するに、中島家を東の鏡師、村田家を西の鏡師、と呼んだとも考えられる事から、『東洲斎写楽』とは「本所松阪町(東)に住む鏡師=我が息子」の事なのである。
そして、途中から『写楽』とのみの落款に変わるが、これは北斎が中島家を物理的に、出てから描いた作品を意味するためだったのかも知れない。
つまり、写楽の作品は、活動期が僅か10ヶ月にも係わらず、4期にはっきりと分けられ、その上画質が急速に低下したと言われているが、北斎の行動・気持ちと一致するのである。
第1期 寛政6年 5月 東洲斎写楽と息子の名で、黒雲母摺で息子を描いた、正に、真のメモリアル作品
第2期 寛政6年 7月8月 東洲斎写楽と息子の名ではあるが、一点を除き息子を描く黒雲母摺は使用しなかった作品
第3期 寛政6年 11月 閏11月 写楽のみの落款に移動、中島家を物理的に出て愛児の元を離れて描いた作品
第4期 寛政7年 1月 家を既に出て、宗理の名を譲り受けると、同時期の作品
以上、人間北斎の行動・気持ちの変化と写楽の作品の変化はまさに一致しているのである。
『東洲斎写楽』息子の為の名を以て、若き北斎が役者絵の勝川派で苦しい修練を積み、数多く手がけ、詳しい役者絵(図37)の集大成を、役者絵の完成を、此の機に成し遂げる事で北斎は、息子に、全力を出し切った父の姿を残す事ができる、けじめをつける事ができると、思ったのではないだろうか、そして幼い息子の為に心の中では正に長男そのものを描いたからこそ北斎は、写楽としてただの一枚も女性を描かなかった。その結果、写楽の作品は、ほとんど役者絵のみという不思議な形で残ったのであり、役者の機嫌を取る事もなく、人気役者にも囚われず、役者の姿を思うがままにデフォルメしたのである。
『写楽』という子の為の名を、子に捧げる事で北斎は自分なりに心のけじめをつけたのではないだろうか。
そして区切りをつける為に寛政7年(1795)36歳、絵師としての再出発を、画名の連続性を、もたせる事なく、全く新たに、『宗理』とだけ、名乗る事から始めたのである。
だからこの時だけは 「写楽改宗理」とも 「群馬亭改宗理」とも 「春朗改宗理」とも 「群馬亭改写楽」とも 「春朗改写楽」とも しなかったのである。
第5節 写楽は長男の死と共に消えた。
写楽、この名は北斎にとっては一番大切な、そして子に捧げた名前なのである。
だからこの写楽という名を、北斎は、他人に譲ることはしなかったのである。
その他の画名は、春朗を始めとし宗理、戴斗、為一、北斎までも、ほとんど他人に譲っているのにである。写楽の名を譲ることは、北斎には、愛児を売り渡すことに等しかったのである。
しかも、その長男は年若くして、何もわからぬまま、死んでしまう。
※資料・馬琴の[後の為の記]に「北斎為一ハ一男一女あり、長男 名ハ富 ハ短命なりき。」とある。
北斎はなんと無念な事であったろう。そしてその後、北斎は中島家と縁が切れ、最後は、川村家の墓に入っているのである。これが、北斎が写楽と名乗った事実を永遠に押し隠してしまう原因なのである。
北斎は年齢もいかぬ子のために、『写楽』と名乗った、そしていつの日か、子にそのことを、自ら打ち明けよう、その気持ちを我が口から直接、話をしようと、それが北斎の息子への免罪符だと、北斎は思った。
それまでは、写楽と名乗った事を絶対に、誰にも知られてはならない、成長した息子に、父、北斎が、誰よりも、最初にその秘密を話すことで、自分の男としての責任を幼い子に、押し付けた、その許しをこうのであるから。北斎はそうした思いから離れる事が出来なかった。そこで、寛政3年(1791)頃より、親しい版元(図38・39)蔦屋、あの蔦屋重三郎なら、北斎は、気持ちがわかってもらえるものと思い、蔦屋にだけ訳を話したのである。そして、男気のある蔦屋はその約束を堅く守ったのである。
事実、不思議な事に北斎の節目には、此の時いつも、蔦屋がからんでいるのである(図1・2・16・33)。
その上、北斎が、俵屋宗理の名を譲り受ける為の資金を、中島家から出させる事は困難であろうし、それ以上に北斎のプライドが許さなかったはずである。
『写楽』を大量に、独占で出す事で、蔦屋から資金を受けたのである。
その事も、伏せておきたかった、それが、なおさら秘密の扉を堅く閉ざしたのである。
その秘密を守る為に、落款も左手で書いたのか筆跡も変え、肉筆も残さなかった上、試摺り以外には立ち会わなかったので摺りの異なる異版も残ったのではないだろうか。
しかし、何も話さぬうちに、長男は死んでしまった。
北斎の悲しみは、どれほど、深いものであったろうか。父として、何も出来ぬまま、息子に死なれた思い、北斎は自らを、画に狂った父、画狂人と自嘲し『画狂人北斎』(図40)と名乗る事によって、息子の霊に詫び、悲しみをこらえたのではないだろうか。
北斎は長男と2人の、写楽という秘密を、長男の墓の内にしまいこみ、それ以後の長い生涯において、一言も、この件にふれる事はなかった、ふれる事が絶対に出来なかったのである。
『写楽』という名は、息子と共に消えなければならない。
北斎と蔦屋が、此の事を口にする事は神に背くこと、死者への冒涜だと2人は、思った。この北斎の気持ちを現代人は女々しい感情と捉えるかもしれないが、江戸時代に於いて絶対的である嫡子と言う封建制度に対する反骨者・北斎のいかにも、北斎らしい最大のレジスタンスを裏で支えた北斎の他人には見せることの出来ない弱さ優しさなのである。此の心のやさしさが無くして、一時のはかない人気は別として永遠に人の心を打つ作品を、作ることができるものなのだろうか。
だから、なおさら内へ内へと、秘められていったのでは、ないだろうか、北斎の秘密に、なったのではないだろうか。
この人情があったからこそ金や権力などで、どんなに抑え込んでも黙ることのなかった、文化人や江戸職人達を、写楽に関しては全く黙らせることになったのではないだろうか、それが当時、写楽の絵の素晴らしさと、黒雲母摺の奇抜さで売れたからこそ、140種も出版が出来たにも係わらず、なんの評判も今に伝わらない理由なのではあるまいか。
その秘密の重い扉をついに、今回、心ならずも開いてしまったのである。
その上、北斎は、写楽という名前だけではなく、写楽という名で描いた役者絵までも、忘れようとしたかのようである。
それ以後、北斎は武者絵(図41)は描いても役者絵をほとんど描いていないのである。役者絵を描く事が、息子を思い出す事になったのだろうか、その後の北斎の役者絵は、数が極めて少ないという量の問題だけではなく、その内容、質がこれまた極めて異様、不自然なのである、役者絵を描く事に、ためらいがあったからではないのだろうか。
それ以降、描いたほんの数点の、役者絵に、「鳥居清満筆意画狂人北斎写之」 『鳥居清信画風葛飾北斎写』(図43) 『人まねする申のはつ春かつしかの親父為一筆』(図42)という、他には見られぬ、全く北斎らしからぬ不思議な落款の作品が残っているのである。
これは独立心の強い北斎には、なんとも情けない、そして不可解な、創造性、オリジナリティーの全く無い、言ってみれば、わざわざ、人まねですと言っている誠に不甲斐ない作品であるわけで、そこにあえて人まねだとして発表しなければならなかった、そうしなければ北斎の心が納まらなかった、北斎の息子へのせつなる思いが、あったのではないだろうか、もう、息子の為に描いた役者絵は終わったのだ、仕事上、どうしても役者絵を描かなければならない時は、人まねですまそう。北斎にとって、役者絵というジャンルは写楽として、息子と共に、その創造性、情熱は燃え尽きてしまっていたのである。
此の事からも、写楽と北斎の作品比較は、70歳過ぎでほぼ同時期に北斎が描いた、一連の一番知られた揃物作品(殆ど落款は『前北斎為一』) 『赤富士』(図56)を始めとする『富嶽三十六景』(図49・52・55) 『千絵の海』(図50) 『花鳥図』(図51) 『諸国瀧廻り』(図53・54) 『百物語』(図45) 『武者絵』(図41) 『山水花鳥・藍摺』(図46・印で為一とシャレて名乗っている) 『百人一首うばがゑとき』(図44・北斎錦絵最後の揃物) などや60歳代に描いた『馬尽』(図47) 『元禄歌仙貝合』(図48)など後半の北斎だけでなく若き北斎(図3・4・5・6など)を含む全時代・全落款との比較が必要で、特に、『写楽の細版』(図1)と『春朗の細版』(図4・17)4・17との比較に、その秘密の鍵が見られるのである。
そして最後に北斎は90回以上も転居したというが、寛政6年末、愛児を残して、本所松阪町にある中島家を出た北斎は、浅草大六天神脇町を始めとして、それ以降、本所林町、上野山下辺、本所亀沢町、本所緑町、深川万年橋、本所石原片町・・・・・・・・・
まだまだ書ききれない程転々としていく、それは何か一か所に留まることを、恐れたかのようにである。
しかし、愛する息子のいる、中島家から程遠くない辺りを、見えない糸に引かれるように、さまよったのではないだろうか。
写楽とは、日本人、いや世界中の人間の誰よりも北斎にとって、忘れられない名前なのである。
「写楽改北斎」、この幻の名を呼ぶとすれば、それは亡くなった長男へのレクイエムではないだろうか。
合掌。
1989年10月26日 脱稿 中村公隆
以上、写楽は北斎である、という、仮説を述べた訳であるが私は自説にこだわるものでも、無く、まして他の説を否定するものでも、無い事を付け加えたい。
写楽の謎解きを通じて江戸文化を考えていく、ひとつの議論の提案として、今回「写楽改北斎」という新解釈を述べた訳で、此の事からこんな見方もある、という色々な意見がさらに生まれて、江戸文化の素晴らしさに、目をむけて戴く事を願っている次第です。
2018年10月26日 データ化・加筆・修正 東京都港区芝5-29-16 リボリ日本文化研究室 室長 中村みのり
掲載図版の説明(※図1・2・10・11・14・19・30以外は全て北斎の色々な別名の作品である)
(図1) ※細判錦絵 ・「三代市川高麗蔵の篠塚五郎貞綱 (暫)」 蔦屋版 東洲斎写楽画・世界で3枚しかない作品の内1枚
(図2) ※大判錦絵 ・「三代瀬川菊之丞の田辺文蔵 妻おしづ」 蔦屋版 東洲斎写楽画・黒雲母摺で女形を描いた代表作
(図3) 大伴錦絵 ・「新板浮絵両国橋夕涼花火見物之図」 勝春朗画 ・洋画を学んだもので春朗落款の後摺がある
(図4) 細判錦絵 ・「少将 中山富三郎」 春朗画・若き北斎が描いた役者絵
(図5) 摺物 先ノ宗理北斎画・ゴンクール氏のコレクションであったもの
(図6) 摺物 北斎画・ゴンクール氏のコレクションであったもの
(図7) 大々判錦絵 ・「鳥瞰図 東海道名所一覧」 葛飾前北斎戴斗 ・禁じられた地図のかわりの東海道絵地図
(図8) 絵本 ・「画本両筆」 東都北斎戴斗 ・他人の本の人物部分だけを北斎が描き替えた
(図9) 黄表紙 ・「竈将軍勘略之巻」 蔦屋版 時太郎可候画作 ・幼名時太郎をもじった北斎の自画像
(図10) ※黄表紙 ・「身体開帳略縁起」 蔦屋版 蔦唐丸自作 ・蔦屋重三郎が狂歌名で画作共にした自画像
(図11) ※洒落本 ・「女鬼産」 豊章画 ・歌麿が初名で役者絵を描いた作品
(図12) 絵本 ・「和漢 絵本魁」 前北斎改葛飾為一 ・描いた年と出版した年の違いがわかる
(図13) 絵本 ・「伝神開手 北斎漫画 二編」 北斎改葛飾戴斗 ・ジャポニズムを生んだ作品
(図14) ※大判錦絵 ・「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」 広重画 ・ゴッホが最初に油絵で模写した原画
(図15) 狂歌本 ・「市川白猿 追善数珠親玉」 葛飾北斎写之 ・市川白猿の追善集の内に一点描いている
(図16) 狂歌本 ・「四方の春」 蔦屋版 北斎宗理画 ・寛政8年北斎という名を初めて使った作品
(図17) 細判錦絵 ・「そがの五郎市川門之助 十郎沢村宗十郎」 春朗画 ・若き北斎が描いた役者絵
(図18) 細判錦絵 ・「両国の水茶屋」 春朗改群馬亭画 ・世界でこの落款の錦絵は一点で一枚のみ
(図19) ※図1と同じ
(図20) 狂歌本 ・「狂歌歳旦 江戸紫」 宗理画 ・寛政7年写楽の名をやめた直後最初の作品
(図21) 摺物 宗理改北斎画 ・ゴンクール氏のコレクションであったもの
(図22) 摺物 北斎改戴斗画 ・見立七福神を描いたくばりもの
(図23) 絵手本 ・「今様櫛きん雛形 くしの部」 前北斎改葛飾為一 ・工芸デザイン手本を描いたもの
(図24) 絵本 ・「富嶽百景」 前北斎為一改画狂老人卍筆 ・富士山の百の姿を描いた物
(図25) 絵手本 ・「略画早指南」 鏡裏庵梅年 ・丸と線だけで絵が描けるとした絵手本
(図26) 絵本 ・「秀雅百人一首」 八十八老卍筆 ・本で年齢の入った北斎最後の作品
(図27) 絵手本 ・「略画早学」 天狗熱鉄 ・文字で絵が描けるとした絵手本
(図28) 絵手本 ・「画本彩色通 初編」 無筆八右衛門 ・最後の絵手本で無学な百姓と謙虚に名乗った
(図29) 間判錦絵 ・「新板浮絵忠臣蔵 第十一段目」 可候画 ・忠臣蔵の討ち入り場面を描いていたことがわかる
(図30) ※寛政武鑑 ・寛政7年刊で武士の氏名禄高系図等をしるした本
(図31) 中判錦絵 ・「仁和嘉狂言 二月ゑま売りの所作」 蔦屋版 春朗画
(図32) 黄表紙 ・「龍宮洗濯噺 芋蛸の由来」 春朗画 ・寛政三年の西村屋版
(図33) 黄表紙 ・「福寿海旡量品玉」 蔦屋版 無款 ・寛政六年春写楽と名乗る直前最後の作品
(図34) 図20と同じ
(図35) 図24と同じ絵本からの他ページで赤富士と同形図
(図36) 図13と同じ絵本からの他ページ
(図37) 芝居絵本 ・「寛政三年 市村座顔見世絵本」 無款 ・芝居に詳しかったことがわかる芝居のプログラム本
(図38) 中判錦絵 ・「壬生狂言 性わる坊主」 蔦屋版 春朗画
(図39) 図33と同じ黄表紙の絵入り貼り題簽 馬琴作 北斎画 蔦屋版
(図40) 摺物 ・「江ノ島詣」 画狂人北斎画 ・幅広横長摺物
(図41) 大判錦絵 ・「武者絵 鬼児島弥太郎 西法院赤坊主」 前北斎為一筆 ・大判錦絵としては数点しかない武者絵の1点
(図42) 摺物 ・「武者絵 市川門之助 市川団十郎」 人まねする申のはつ春かつしかの親父為一筆
(図43) 読本 ・「山桝大夫栄枯物語」 鳥居清信画風葛飾北斎写 ・わざわざ人真似した作品
(図44) 大判錦絵 ・「百人一首 宇波か縁説 藤原道信朝臣」 前北斎卍 ・百歳にこだわった北斎錦絵最後の揃物
(図45) 中判錦絵 ・「百物語 しゅうねん」 前北斎芒笔 ・北斎が百歳まで生きたいとの執念と宗教心
(図46) 中判錦絵 ・「小禽に虻 藍摺」 前北斎 印=為一 ・印で為一を表した藍摺の作品
(図47) 摺物 ・「馬尽 駒鳥」 不染居為一筆 ・馬年に馬にちなんだ狂歌くばり物
(図48) 摺物 ・「元禄歌仙貝合 あこや貝」 月癡老人為一筆 ・文政11年の配り物
(図49) 大判錦絵 ・「富嶽三十六景 相州梅澤左」 前北斎為一笔 ・笔と書いた落款で藍摺の富嶽三十六景
(図50) 中判錦絵 ・「千絵の海 五島鯨突」 前北斎為一筆 ・北斎の版画として完成度の最も高い作品
(図51) 大判錦絵 ・「花鳥図 牡丹に胡蝶」 前北斎為一筆 ・錦絵の花鳥図で最も芸術性の高い作品
(図52) 大判錦絵 ・「富嶽三十六景 武州玉川」 北斎為一筆 ・富嶽三十六景四十六点の内この落款は一点のみ
(図53) 大判錦絵 ・「諸国瀧廻り 下野黒髪山きりふりの滝」 前北斎為一筆 ・北斎が水の芸術家と言われる作品
(図54) 大判錦絵 ・「諸国瀧廻り 木曾海道小野ノ瀑布」 前北斎為一筆 ・瀧廻り八図の内の一点
(図55) 大判錦絵 ・「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 (大浪)」 北斎改為一筆 ・雲が少しながら残っている初摺の手の品
(図56) 大判錦絵 ・「富嶽三十六景 凱風快晴 (赤富士)」 北斎改為一筆 ・茶褐色の赤富士で版木目が出た初摺の手の品