古代ローマコイン マルクス・アントニウス 前43年 デナリウス銀貨 マルクス・アントニウスとユリウス・カエサルの肖像

古代ローマコイン マルクス・アントニウス ユリウス・カエサル デナリウス銀貨

前43年ガリア・キサルピナ発行

オモテ:M ANTON IMP 右向きのマルクス・アントニウスの肖像 肖像の後ろにリトゥウス(卜占官の杖) 

ウラ:CAESAR DIC 右向きのユリウス・カエサルの肖像 水さし

3,61g 19mm

カエサルの死後、アントニウスが前43年にガリア・キサルピナで発行したデナリウス銀貨。
ボノニア(現ボローニャ)の会談でオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治成立直後に軍団への給与のために発行されたと推定される。
オモテ面にアントニウス、ウラ面にカエサルの肖像が刻まれた意匠から、アントニウスが殺されたユリウス・カエサルとの強い繋がりを示して、自らの軍団の士気を上げる必要があったことがうかがえる。

ガリア・キサルピナ位置


前44年3月15日にユリウス・カエサルが暗殺されたのち、
ギリシャで遊学中であったオクタウィアヌスは同年5月6日にローマに帰還。

カエサルとともに執政官であったマルクス・アントニウスとカエサルを殺した元老院派との間で既に不戦条約が結ばれ、カエサル暗殺の首謀者は各自恩赦により3月17日付で国外に退去、ブルートゥスとカッシウスはギリシアに赴任し、デキムス・ユニウス・ブルートゥス・アルビヌスはガリア・キサルピナ属州を支配下に押さえていた。

ローマで次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせた。
同年9月には、アントニウスと対立していたキケロがオクタウィアヌスと接近し協力するようになる。
オクタウィアヌスはキケロら元老院派と手を組んでアントニウスは元老院の脅威となっていると弾劾した。
次第にアントニウスは元老院で孤立してゆき、さらに1年間である執政官の任期も迫ってきたため窮地に陥った。
この窮地に対してアントニウスは防衛策を打つ。執政官の任期が切れる前に、自分の身柄を保護する場所として属州ガリア・キサルピナに注目したのである。この属州は当時デキムス・ブルトゥスが統治していたが、彼に代わり自らの統治を認める法案を元老院で成立させる。この間、オクタウィアヌスはカエサルの古参兵を招集して自らの軍隊を着々と編成、加えて10月28日にアントニウス配下の2個軍団も指揮下に入れる。12月31日に執政官の任期を終えたアントニウスは、前43年1月1日にガリア・キサルピナへと逃れた。

ガリア・キサルピナの委譲を拒否するデキムス・ブルトゥスはムティナ(現モデナ)でアントニウス軍に包囲された。
元老院は争う両者を止めようとするも失敗し、自らの軍を持たない元老院に代わってオクタウィアヌスがこの状況を活用しようとする。
前43年1月1日、元老院はオクタウィアヌスを元老院議員に任命、そして指揮権を与えた。この年の執政官であるヒルティウスとパンサとともにアントニウスが行っている包囲攻撃を中止させようと試みるが、両執政官はアントニウスとの戦いで戦死した(ムティナの戦い)。
元老院は台頭するオクタウィアヌスを恐れてデキムス・ブルートゥスに近づき、上記の両執政官が率いた軍団の指揮権を委ねることを決議した。これに反発したオクタウィアヌスは前線から撤退、ポー川流域に留まり、それ以上のアントニウスへの攻撃要請を拒否した。
6月にオクタウィアヌス配下のケントゥリオがローマに赴き、ヒルティウスとパンサが有していたこの年の執政官特権を委託するよう要請、またアントニウスを「国家の敵」として断罪することを破棄するよう要請した。元老院がこれを拒否すると、オクタウィアヌスは8個軍団を率いてローマに進軍する。さしたる抵抗なく8月19日にローマに入城した彼は、親戚であるクィントゥス・ペディウスとともに改めて執政官に選ばれる。一方でアントニウスは、同僚でカエサル支持派でもあったマルクス・アエミリウス・レピドゥスと連合して元老院と対峙した。ここで、内心はカエサルの後継者として帝政(元首政)を目指すオクタウィアヌスは、彼らとの妥協を模索した。

こうして前43年10月、ボノニア(現ボローニャ)においてオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる会談により第二回三頭政治が成立。
彼らは国家再建三人委員会を開設し、カエサル暗殺者逮捕を名目に、元老院派の排除に乗り出した。作成された名簿に基づいて元老院派と目された元老院議員約300人、騎士身分約2,000人が殺害、財産が没収されたといわれる。この時キケロも殺害された。


マルクス・アントニウスの彫刻
<マルクス・アントニウス>
前83年誕生。
古代ローマの将軍・政治家。プレプス(平民)出身。
前54年からガリアでユリウス・カエサルの幕僚として服務。
前52年財務官(クァエストル)、前50年卜占官、その翌年護民官(トリブヌス・プレブス)に選ばれ、ローマでカエサルの代理人を務めた。
しかしカエサルとポンペイウスが対立すると元老院によって追放されカエサルのもとに逃れた。
前50年ファルサルスの戦いではカエサルに従ってポンペイウスを破り前48-47年には騎兵隊長となった。
前44年執政官(コンスル)となり、同年3月カエサルが暗殺されるとその遺言状を公表。追悼演説で民心を扇動し、暗殺者ブルートゥスらはローマ退去を余儀なくされた。
カエサルの養子で財産相続人と定められたオクタウィアヌスと初め対立したが、前43年和解、両者にレピドゥスを加えて第二次三頭政治が成立した。
前42年オクタウィアヌスとともにマケドニアのフィリッピでブルートゥスとカッシウスを破り、この戦いの殊勲者としてアントニウスの信望は高まった。東方問題処理のため東方にとどまり、前41年キリキアのタルソスにクレオパトラを呼び寄せたが、彼女と恋に落ち、その年の冬中アレクサンドリアでともに暮らした。
前40年イタリアに戻り、オクタウィアヌスと会見して協定を結び、アントニウスは東方属州、オクタウィアヌスは西方属州を統治することにし、この協定を固めるためアントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚した。
しかし前37年末頃クレオパトラと結婚してアレクサンドリアに住みつき、オクタウィアヌスとの対立は激化。

ユリウス・カエサルの彫刻
<ユリウス・カエサル>
古代ローマの最も偉大な将軍、政治家。英語名はジュリアス・シーザー。民衆派(ポプラレス)に属し、青少年時スッラの全盛時代であったため各地を転々とし、前78年スッラの死を聞いてローマに帰り、前77年以後政界に入った。ロードスで修辞学を学び、前68年財務官(クアエストル)、前65年按察官(アエディリス)を経て、前63年大神官(ポンティフェクス・マキシムス)に当選。その選挙費用のためローマ最大の債務者となった。
前61年ヒスパニア総督、翌年ローマに帰ってポンペイウス、クラッススと第一次三頭政治を形成。
前59年執政官(コンスル)となり、市民への土地配分など政治的手腕を発揮した。
前58年からガリア遠征に向かい、ガリア・トランサルピナの諸部族を平定。
前52年ウェルキンゲトリクスの大反乱をも鎮圧、ローマのガリア支配を確立するとともに、今後の活動に必要な軍隊と豊富な資金を取得した。
前54年彼の娘でポンペイウスの妻ユリアが死に、前53年クラッススがパルティア帝国と戦って敗死すると、三頭政治に代わってカエサルとポンペイウスの対立となった。
前49年閥族派(オプティマテス)がポンペイウスと組んでカエサル召還を元老院で決議したため、彼はルビコン川を渡ってローマに進撃。ポンペイウスはギリシャに逃れ、カエサルはまずヒズパニアを討ち、前48年ギリシャに渡りファルサルスの戦いでポンペイウスを破った。
エジプトに逃れたポンペイウスを追ったカエサルはプトレマイオス朝の内紛に介入してクレオパトラ7世と結ばれ、彼女を女王とした。
前47-45年にはポントス、アフリカ、ヒスパニアに転戦、ポンペイウス派の残党を撃滅してローマに帰還し、盛大な凱旋式を行った。
前46年にはすでに共和政の伝統に反して10年任期の独裁官(ディクタトル)、前44年には終身の独裁官となり監察官(ケンソル)職を取得して元老院に腹心の者を無制限に入れ、その数900人に及んだ。
反対者には仁慈をもって接し、独裁者として多岐にわたる立法活動を行い、救貧事業、植民市建設、暦法改革などを実施。
属州総督の任期の限定、弊害の多かったアシア州とおそらくその他の州の徴税請負制度の廃止、税額の軽減を行った。
しかし彼の強大な実権は王政実現への危惧を引き起こし、ついに共和派のブルートゥスらによって元老院議事堂で暗殺された。
古代ローマコイン マルクス・アントニウス 前43年 デナリウス銀貨 マルクス・アントニウスとユリウス・カエサルの肖像