古代ローマコイン マルクス・アントニウス クレオパトラ デナリウス銀貨 前34年アレクサンドリア発行 アントニウスとクレオパトラの肖像が刻まれた銀貨

古代ローマコイン マルクス・アントニウス クレオパトラ デナリウス銀貨

前34年アレクサンドリア発行

オモテ:CLEOPATRAE REGINAE REGVM FILIORVM REGVM (Cleopatræ Reginæ Regum Filiorum Regum 諸王の女王であり、王である息子たちの女王クレオパトラ) 右向きのクレオパトラの肖像

ウラ:ANTONI ARMENIA DEVICTA (Antoni Armenia Devicta アルメニアを服従させたアントニウス) 右向きのアントニウスの肖像、その後ろにはアルメニアの冠

サイズ:3,46g 19mm

コイン発行地エジプト・アレクサンドリア位置

クレオパトラとアントニウスの肖像が刻まれた前34年発行のデナリウス銀貨。
ローマコインの意匠に外国の統治者の肖像と名が使われたことはローマ史上前例のない出来事であった。
この銀貨の発行は、前36年のパルティア遠征の失敗後のアントニウスに及ぼすクレオパトラの影響力の増大を示す証拠と言える。
発行は前34年にアレクサンドリアで行われた凱旋式の頃であると推定されている。
アントニウスは失敗に終わったパルティア遠征でローマではなくパルティアの味方をしたアルメニアを攻撃し、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。
凱旋式でアントニウスはアルメニアの国王をはじめとする捕虜の後について、二輪馬車でアレクサンドリアの市中に繰り出し、中央広場の豪華な椅子に腰かけたクレオパトラが待つ場所までパレードをし、その後祝宴となり、金と食事がふるまわれたとされる。
ローマの将軍がローマ以外の地で凱旋式を行ったことはかつてないことであり、オクタウィアヌスのアントニウスへの攻撃材料となった。
しかし実際のところ、アントニウスがローマで行われていた凱旋式のようなつもりでこの式を行ったかどうかは定かでない。
アントニウスがエキゾチックな東洋風の見世物を行ったという説も挙げられている。
式でのアントニウスの服装はローマの将軍風ではなく、ディオニソス神に扮していた。頭にはブドウやツタの葉の冠がおかれ、サフラン色と金色のローブをまとい、テュルソス(松かさ、ブドウやツタの葉で先端が覆われたウイキョウの幹で、ディオニソスの持ち物)を握っていたとされる。
アントニウスは自らを東方の属州民にデュオニソス神と同一視させることによって、エジプトでの統治を安定させようとしたとも考えられる。
さらに数日後、アントニウスは「アレクサンドリアの寄贈」と呼ばれる儀式を行った。
儀式は町のギュムナシオンのある豪華な建物で行われ、アントニウスと女神イシスに扮したクレオパトラが王座に鎮座した。
当時13歳のカエサリオンは正式にプトレマイオス15世カエサルとして、クレオパトラの共同統治者となり、アントニウスとクレオパトラと共に王座に座った。
アントニウスは王座から立ち上がり演説を行った。
アントニウスの主張はクレオパトラがユリウス・カエサルと結婚していたので、プトレマイオス・カエサルはその正嫡でるということであった。
この主張は当然オクタウィアヌスの立場を揺るがすことを目的としていた。
次にアントニウスはクレオパトラとその子供たちに賛辞を示して東方の領土を寄贈した。
しかしアントニウスはローマの東の領土を完全にクレオパトラと子供たちに譲渡したわけではなかった。
アントニウスは三人委員(三頭政治)としてもローマ軍の司令官としても最高の権威を保持しており、その背後には元老院とローマ市民が控えていた。
おそらく「アレクサンドリアの寄贈」は象徴的なジェスチャーで、アントニウスをディオニソス、クレオパトラをイシスとしたうえで東方を再編するためにおこなったのである。
東方諸州の経営や裁判、微税はローマの当局者よりも地元の人間に任せる方が容易であった。地元住民が外国の占領下にあると感じない方が安定した統治ができたのであろう。

しかしこれらの出来事は全てオクタウィアヌスの攻撃材料となった。アントニウスとクレオパトラの野望はローマの転覆であるというプロパガンダへとつながった。
この銀貨の発行からわずか4年後に、アントニウスとクレオパトラはオクタウィアヌスによって自殺に追い込まれた。


<クレオパトラ7世>

クレオパトラとされる彫刻

誕生前69年、死没前30年。
エジプト、プトレマイオス朝最後の女王。在位前51〜30年。
プトレマイオス12世アウレテスの子。
前51年父より王位を継ぎ、弟のプトレマイオス13世、同14世と次々に結婚。
ユリウス・カエサルとの子とされる息子カエサリオン(プトレマイオス15世カエサル)と三代にわたり共同統治者となった。
ギリシア=マケドニア系で、イラン人の血をひく彼女は、高度の教育を受け、エジプト語をはじめ数ヵ国を解し、才色兼備で、精力的であり、エジプト支配とローマの中央権力に加わり、これを共有することを目指した。
前48年カエサルがアレクサンドリアに来た時、カエサルの力をかりて弟王プトレマイオス13世を滅ぼして権力を得、前46年カエサルを追ってローマに赴き、おそらくカエサルの子と思われるカエサリオンを産んだ。
前44年カエサルが暗殺されたので、エジプトに帰国。
前41年マルクス・アントニウスの命でキリキアのタルソスに赴き、そこでアントニウスの心をとらえた。
アントニウスの子である男女の双子を産み、前33年にはアントニウスと正式に結婚。アントニウスは彼女にフェニキア、ユダヤ、クレタなどローマ領を贈り、前34年には東方帝国の宣言をし、彼女を「諸王の女王」とした。
その間ローマではオクタウィアヌス(後にアウグストゥス)が元老院でアントニウスを弾劾し、クレオパトラに対し宣戦を布告。
前31年アクティウムの海戦に敗れ、翌年オクタウィアヌスにアレクサンドリアを占領され、アントニウスは自殺、数日後、クレオパトラも自殺した。カエサリオンも殺され、ここにプトレマイオス朝約300年間の支配は終わった。

<マルクス・アントニウス>

アントニウスの彫刻

誕生前83年。死没前30年。
古代ローマの将軍・政治家。プレプス(平民)出身。
前54年からガリアでユリウス・カエサルの幕僚として服務。
前52年財務官(クァエストル)、前50年卜占官、その翌年護民官(トリブヌス・プレブス)に選ばれ、ローマでカエサルの代理人を務めた。
しかしカエサルとポンペイウスが対立すると元老院によって追放されカエサルのもとに逃れた。
前50年ファルサルスの戦いではカエサルに従ってポンペイウスを破り前48-47年には騎兵隊長となった。
前44年執政官(コンスル)となり、同年3月カエサルが暗殺されるとその遺言状を公表。追悼演説で民心を扇動し、暗殺者ブルートゥスらはローマ退去を余儀なくされた。
カエサルの養子で財産相続人と定められたオクタウィアヌスと初め対立したが、前43年和解、両者にレピドゥスを加えて第二次三頭政治が成立した。
前42年オクタウィアヌスとともにマケドニアのフィリッピでブルートゥスとカッシウスを破り、この戦いの殊勲者としてアントニウスの信望は高まった。東方問題処理のため東方にとどまり、前41年キリキアのタルソスにクレオパトラを呼び寄せたが、彼女と恋に落ち、その年の冬中アレクサンドリアでともに暮らした。
前40年イタリアに戻り、オクタウィアヌスと会見して協定を結び、アントニウスは東方属州、オクタウィアヌスは西方属州を統治することにし、この協定を固めるためアントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚した。
しかし前37年末頃クレオパトラと結婚してアレクサンドリアに住みつき、オクタウィアヌスとの対立は激化。


アントニウスとクレオパトラの出会いの場面を描いたビクトリア朝時代のローレンス・アルマ=タデマの絵画
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