<古代コイン芸術 古代オリンピック>


古代オリンピックと聞いてどんなイメージを抱くだろうか。
現代オリンピックのように、スポーツ種目を競う大会を思い浮かべるかもしれない。
しかし、古代オリンピックは現代オリンピックとは全く違う。
4年に一度、全ギリシャから参加者が集まった古代オリンピックは、古代ギリシャ世界、最重要の宗教祭儀であった。
もちろん、スポーツ競技は行われたが、それは金メダルを得るためではない。
スポーツ競技はギリシャの最高神ゼウスに捧げるために行われたのである。

まず何よりも、古代オリンピックがいかに古代ギリシャ世界で重要であったかは、古代ギリシャ人が古代オリンピックを紀年法として使ったことが証明している。
現在世界の多くの国では、西暦という紀年法が使われ、私たちはイエス・キリストの誕生を基準に、紀元前○○年、紀元後○○年として、歴史を語る。
しかし西暦と呼ばれるキリスト紀年法は6世紀に考案されたものである。
キリスト紀年法を多くの教会が使い始めたのは10世紀で、さらにヨーロッパで一般的に使い始めたのは16世紀に入ってからのことであった。


古代ギリシャでは歴史を語る時に、オリンピックが基準となった。
オリンピックの優勝者の名、開催回数で時を語るのである。これはオリンピック紀年法、オリンピアードと呼ばれる。
例えば、前5世紀の世界最初の学問的な歴史家、トゥキディデスは、今では前428年と呼ばれる年を、「ロードス島のドリウスが2回目の勝利を得たオリンピックの時」と語っている。

なぜオリンピックが古代ギリシャ人の時を数える基準となったかは、古代ギリシャ人の国家は、それぞれ別の暦を使用していたからである。
4年に一度、定期的に開かれる、オリンピックは全ギリシャ人が共有できる時の尺度、つまり古代ギリシャ人共通の暦でもあったといえる。

古代オリンピックが時の尺度であったことを示しているは、1901年にギリシャ・アンティキティラ島の沈没船から発見された、アンティキティラの機械である。
アンティキティラの機械は世界最古のコンピューターと呼ばれる、前2世紀に作られた、天体運行を予測する機械である。
少なくともと30個以上の歯車を組み合わせたこの機械には、古代オリンピックをはじめとした古代の主要な競技会を示す目盛りがあったことが、2008年、最新のCTスキャンで判明している。


<古代オリンピックの起源>

古代オリンピックの開催地オリンピアは、ペロポネソス半島西部エリス地方に位置する。
発掘調査によれば、オリンピアは前10世紀末から前9世紀初め頃には、すでにゼウスを祀る場所であった。
しかし、この頃のオリンピアは、まだひっそりとした静かな聖域であった。

前8世紀、地中海各地へのギリシャ人の植民市建設が活発化していった。
それに伴いオリンピアも、シチリア島などの西方の植民市とギリシャ本土を結ぶ場所に位置していたため、より重要視されるようになっていった。

第1回オリンピックは前776年と語られる。これは、古代に記録された古代オリンピックの優勝者名とオリンピアード紀元法を逆算して推定された年で、この年から突然オリンピックが開始されたわけではない。
すでに、オリンピアが聖域として機能し始めた頃には、儀式に伴う競技も行われていたと考えられている。
しかし、競技というと、現代オリンピックのように様々なスポーツ競技が行われていたようにイメージされるかもしれないが、初期の古代オリンピック競技は徒競走だけであった。
戦車競走や、レスリング、円盤投げなどの様々なスポーツ競技が徐々に時代と共に加えられていったのである。

古代オリンピックが拡大化を始めたのは、ペルシャ戦争の時期であった。
アケメネス朝ペルシャは、前546年にリディア王国のクロイソスを倒して以来、イオニアのギリシャ諸都市を服従させていた。
これに対してアテネが介入し反乱を起こし、幾度の戦争を乗り越え、ギリシャは前449年、アテネはペルシャと平和条約を結んで、ペルシャ戦争は終結した。

前476年のオリンピック大会は、ギリシャの祝勝大会として全ギリシャ人の平和が祈願された。
さらに前468年には、これまでわずか1日であった開催期間が5日間に延長された。

この時期、オリンピック開催を管轄していたエリス人は、前471年、都市国家エリスを建都し、アテネのような民主政国家を築き始めたのである。



新たな都市国家エリスの誕生と共に、オリンピアではコイン発行が開始された。
最初のコイン発行は前468年(78回オリンピアード)と推定されている。
オリンピアのコインは、前6世紀末から前5世紀初頭に埋められたと推定される多くの埋蔵金の中からは全く発見されていない。オリンピアのコインを含む埋蔵金の中で最も古いのは前460年頃に埋められたものと推定される。

オリンピアのコインが都市国家エリスによって発行されたことは、コインに刻まれた文字が証明している。コインに刻まれたFAの文字はFaleion(エリスの)を意味している。




都市国家エリスのコインはオリンピアの聖域内で発行されたと考えられている。
この説は1921年、イギリスの学者セルツマンがオリンピアのコインはゼウス神殿とヘラ神殿に付随する貨幣発行所で発行されたと述べたことによる。
セルツマンの意見は今でも肯定的に受け入れられている。
なぜなら、オリンピアの聖域は、オリンピック大会への来場者、そして聖地への巡礼者などで、特別に大量の貨幣需要が求められたと考えられるからだ。
オリンピアで使用できる貨幣はオリンピアのコインのみとされ、外国からの来場者は外国のコインをオリンピアのコインに両替して使用したのではないかとも考えられている。

同時代のアテネ、アイギナ島、コリントスなどのコインは、種類は少なく、意匠は定番化している。
定番化したコイン意匠は信頼を意味する。つまり広範囲に渡って認知され流通されることが意図されたコインであったと考えられている。

一方、オリンピアのコインは様々な種類があり、また初期のコインは、アイギナのコインと比較すると若干軽量のものが多いのだ。
これらの点は、遠距離貿易には不便であるため、オリンピアのコインはオリンピアで使用されるために発行されたという考えが支持されている。
また、オリンピアに到着した外国人が、彼らのコインをオリンピアのコインに両替する際に、エリスの国家が、両替手数料を差し引いて、オリンピア聖域の運営費の助けにしたのではないかという推測もされている。
また、ある研究者はオリンピアのコインはオリンピックの記念メダルとして販売されたのではないかとも考えている。








コインの発行も行われ、オリンピック大会が拡大した前5世紀、オリンピアの聖域の魂ともいえるゼウス像が出来上がった。
「世界の7不思議」にも数えられた巨大なゼウス像がおさめられたゼウス神殿が、前457年頃に完成したのである。
ゼウス像は著名な彫刻家フェイディアスの作で、象牙と黄金で作られており、高さは12メートル以上に及んだという。

フェイディアス作ゼウス像のイメージ図




このように前5世紀、都市国家エリスの成立、コイン発行の開始、フェイディアスのゼウス像の完成と、オリンピアは発展を遂げて行き、オリンピック大会は骨格化していったのであるが、古代ギリシャ人の最重要の祭儀であった、古代競技会とはいったい何であったのかを次にみていきたい。



<古代競技会とは>
古代ギリシャでは、オリンピック大会だけでなく、様々な競技会が各地で開かれていた。
中でも代表的なのは、全ギリシャから参加者が集まったパンヘレニック祭と呼ばれる4大競技会であった。4大競技会は、オリンピック、ピュティア、イストミア、ネメアである。





4大競技会は、それぞれがゼウス、アポロン、ポセイドンという、ギリシャ神話を代表する神々に捧げられた祭儀である。
4大競技会を代表するオリンピック大会はギリシャの最高神ゼウスのために行われた。

これらの全ての大会ではスポーツ競技が行われたが、スポーツ観戦が目的であったわけでなはい。
スポーツ競技は神々に捧げる儀礼の1つであったことを念頭に置いてほしい。

古代オリンピック最重要の儀式は、現代人なら震え上がってしまうが、100頭の牛を生贄することであった。
これはヘカトンベ(百牛祭)と呼ばれ、5日間の開催期間の中日、3日目に行われた。
なぜ古代オリンピックの3日目、中日が最も重要なのかは、その日が満月であるからだ。
古代オリンピックは夏至のあとの2回目または3回目の満月に開催された。
オリンピックの中日、つまりヘカトンベ呼ばれる生贄の日が必ず満月に当たるように、日程が組まれたのである。

ヘカトンベでは、百頭の牛がゼウスの祭壇まで連れられ順々に神官によって屠られた。
百頭もの牛による大量の血は想像しただけで震えてしまう。
古代オリンピックのメインイベントは大量の牛による「死」のセレモニーなのである。
しかし、100頭もの牛をただ殺すわけではない。
オリンピック大会に集った観客たちが、夜、満月の明りの下の饗宴で、その肉を食らうのである。
食らうことは「生」である。
死の後には生が巡るという摂理を、オリンピックの最重要の儀式ヘカトンベは意味している。




神に生贄を捧げる行為は、全ての生物の宿命である「死」を目前にさせることである。
生贄にした牛を満月の夜の宴会で食すという行為は、死から生というサイクル、つまり、この世の摂理を儀礼化したものである。
古代オリンピックの最も重要な目的は、「死と生」という摂理を全ギリシャ人で体感することであったと筆者は考える。

神話における古代オリンピック起源のテーマも「死と生」である。
軍神アレスの息子であったオイノマオス王にはヒッポダメイアという娘がいた。
王は戦車競走で自分に勝利した者と娘を結婚させるとした。
12人もの求婚者が次々と戦車競走に挑んだが、王に勝利した者は1人としておらず、求婚者たちは次々と首をはねられた。
ついに13人目にペロプスという求婚者があらわれた。娘はペロプスと恋に落ち、ペロプスを勝たせようとして父の戦車に細工をした。
戦車競走で王はペロプスに負け、抹殺される。
ペロプスが新たな王となり、先王の葬礼競技としてオリンピックがスタートしたというのがオリンピック起源神話である。

また、神話において、オリンピック大会だけでなく、イストミア大会、ネメア大会も葬礼競技を起源とする。
イストミア大会はオルコメノス王アタマスの子メリケルテスの死である。
メリケルテスの母レウコテアは、メリケルテスを腕に抱いて海に身を投げ無理心中をした。
メリケルテスの遺体はイルカの背に乗ってコリントスへと運ばれ、コリントス(イストミアを管轄する都市国家)では、メリケルテスの葬礼儀礼としてイストミア大会を開始したという神話である。
コインにもイストミア大会の象徴として、イルカに乗った少年の意匠が刻まれた。




ネメア大会もまた、子供の死を起源としている。
王リュクルゴスの子オフレテスはある時セロリを敷いた上で寝かされていた時に、毒蛇にかまれて死んでしまった。オフレテスの葬礼競技としてネメア大会はスタートしたと神話は語る。

これらの神話の王やその子供の死は、すべての生命の死を象徴している。王の死後、新たな王が就き、王国が続いていく。この世の全てに見られる、死と生のサイクルである。
死と生が儀礼化されたのが、古代競技会なのである。

ではなぜ、スポーツ競技が行うのか。

古代ギリシャ人は現代人のように金メダルのためにスポーツ競技を行ったわけではない。
スポーツ競技は誰に見せたのか、もちろん人間も観客であったが、真の観客は神であった、つまり神のために競技を捧げたのである。

ではなぜ、スポーツ競技を神に捧げるのか。
スポーツ競技は、人間の限界を見せる行為であるからだ。
最も身体能力に優れ、肉体の絶頂期にある、選ばれし若者たちが全力で競技を行う姿は、神から与えられた肉体の限界の姿である。いわば人間の肉体のクライマックスである。
生の限界を容易く視覚化できるのがスポーツ競技なのである。
限りある肉体のクライマックスを神々に見せる、つまり捧げるというのは、ある種の生贄行為である。
つまり、古代オリンピックを始め、古代各地でスポーツ競技会を行れたのは、それが生の象徴であるからと筆者は考える。

それゆえ、スポーツ競技は見る者に興奮を与え、古代オリンピックは時代と共に、様々なスポーツ競技が加えられていったのである。

古代ギリシャ人のスポーツ競技への興奮、情熱はコインにも映し出されている。
古代ギリシャ各地で発行された様々な古代オリンピック競技種目が刻まれたコインは、その情熱を現代の私たちにも熱く語りかける。


<古代コインに刻まれたオリンピック競技>


(レスリング)




レスリングを始めとした格闘競技は、競技の最終日4日目に行われた。
一対一の肉体がぶつかり合うレスリングが、特に人々を熱狂させたことは想像に容易い。

レスリングのコインは、面白いことに様々な組手のコインが存在する。



さらに4日目の格闘競技ではボクシングやパンクラティオンが行われた。
パンクラティオンは噛みつくことと目つぶし以外は何でもありの総合格闘技で、相手がノックアウトするまで続けられ、選手が死亡する例もあった。
パンクラティオンは、まさにゼウスに生を捧げた競技の極致といえる。

ローマで発掘された、休息するボクサーのブロンズ像 前330-前50年(ローマ国立博物館) 





このコインには面白いことにボクシング選手が手に巻いた籠手が刻まれている。




このローマコインには、優勝したボクシング選手がウィニングランする姿が表されている。左手に持っているのがカエストゥスと推測されることからボクサーであると考えられている。




(戦車競走)




戦車競走は、映画『ベン・ハー』がその迫力を再現しているが、古代ギリシャ・ローマ世界で最も愛された競技であると言える。
それまで、徒競走だけであったオリンピック大会に4頭立て戦車競走が追加されたのは、前680年、25回オリンピック大会の時であったと記録されている。
それ以後、2頭立て、競馬競争などが加えられ、オリンピックが5日間に拡大されてからは、競馬競技は2日目(スポーツ競技の初日)に行われた。

4頭立て戦車競技はオリンピックの中で最も迫力のある競技で、2日目の日の出と共に行われた。
選び抜かれた美しい馬たちが御者に操られ12周トラックを回った。
12周という数字は1太陽年の月の数を彷彿させる。
日の出ともに戦車が走りだし、トラックを回る動きは、太陽と月を象徴しているという見方もある。

そしてオリンピックの戦車競走といえば、マケドニア王国のフィリッポス2世である。
アレクサンダー大王の父、フィリッポス2世は前352年と前348年のオリンピック大会の戦車競走で優勝し、それを記念して2頭立て戦車を金貨に刻んだ。



この金貨は古代世界で最も貴ばれたコインで、ケルト人もこの金貨に出会ったことで、このコインを原型にしてコインの発行を開始している。

また、フィリッポス2世は前356年の騎馬競走でも優勝しており、騎馬競走の勝者を刻んだ銀貨も発行した。




さらに、フィリッポスは前338年、カイロネイアの戦いでギリシャ諸都市に勝利した際、新たなギリシャの支配者として、オリンピアの聖域にフィリッペイオンと呼ばれる円形の建物を建造した。
中にはフィリッポス2世、その両親、妻オリンピア、息子アレクサンドロス(後にアレクサンダー大王)の彫像が安置されていたという。
フィリッポスがオリンピックでの優勝をコインに刻んだり、オリンピアの聖地にフィリッペイオンを建造したことは、自身を神格化するためであった。
フィリッポスは、オリンピック大会という古代ギリシャ人にとって最も重要な祭儀を自身と結び付けれければ、ギリシャ支配が潤滑に行えると考えていたのだろう。


(武装競争)
武装競争(ホプリトドロモス)なる競技も存在した。この競技は重装歩兵の兜や盾を身に着けて走る競技であった。




(下馬競争)
競馬競争の種目には、アナバテスと呼ばれた下馬競走があった。下馬競走は騎手がコースの最後に下馬して、馬と一緒にゴールまで走った。
鍛えられた肉体が馬から俊敏に下りる姿はさぞかし美しかったことだろう。
その美しさはコインに再現されている。




騎手が下馬して着地しようとする一瞬をコインは捉えている。




(ラバのカートレース)
アぺーネと呼ばれたラバのカートレース競技もあった。
この競技はシチリア島の権力者がオリンピックに導入した。なぜならシチリアはラバの産地として名を成していたからだ。
しかし、この競技はあまり人気がなかったのか、オリンピック大会で14回しか行われなかった。
シチリア島、レギウムのアナクシラスはオリンピックでのラバのカートレースでの優勝を記念した意匠をコインに刻んだ。






<オリンピック大会優勝者のほうび>

オリンピック大会の最終日である5日目、表彰式が行われ、各競技の勝者はタイニアと呼ばれるリボンとシュロの葉枝を持ってゼウス神殿の前に集合した。
そして、一人一人、審判からオリーブの冠を授かった。
この冠はゼウス神殿に生えていたオリーブの神木から編んで作られ、何にもまして神聖なものであった。
オリンピック大会で授与される直接的な賞品はこのオリーブの冠だけであった。




しかし、優勝者は自国に帰れば、英雄としての扱いを受け、様々な物品を享受できたであろう。
アテネではオリンピックの優勝者に500ドラクマの報奨金を与えられたという。

また、古代ギリシャ、ローマでは金品をほうびとした競技会も数多くあった。
アテネのパンアテナイア祭はその典型で、優勝者にはオリーブオイルが詰まった、美しい絵が描かれた大量のアンフォラが賞品であった。




またホメロスの『イーリアス』では、競技会の賞として、青銅の三脚釜、酒器、武具、金などが登場する。




しかし、古代オリンピックのように、古代の歴史家たちが、時を数える時に、オリンピックの開催回と優勝者の名を使っていたことは、何の賞品にも代えがたい名誉であったといえる。




<ローマ時代のオリンピック>

ローマが地中海世界の覇者となり、ローマがギリシャを支配下に置いたのは前146年のことであった。
それ以降もオリンピック開催は続いた。
前1世紀、スッラの時代、ローマ人のギリシャ各地での略奪行為は絶頂に達した。スッラはギリシャの宝をかっさらっただけでなく、ギリシャ人の血を大量に流したことで悪名高い。
プルタルコスによれば、スッラはオリンピア聖域の財宝もローマに運ばせたという。

先に述べたアンティキティラの機械が見つかった沈没船も、前70-前60年頃、ローマ人がギリシャの略奪品をローマに運ぶ途中で難破したと推測されている。
この沈没船の年代推定の鍵となったのもコインである。前70-前60年に発行された大量のペルガモンのコインが塊で発見されたからである。

アンティキティラの機械は、ローマに辿りつくことはできず、2000年以上も海の中で眠っていたわけであるが、オリンピア聖域の宝を始め、多くのギリシャの美術品はローマに辿りつくことができた。そしてギリシャ美術の美しさはローマ人を虜にした。 ローマは政治的にはギリシャを支配していたが、文化的には、ギリシャに支配されていた。

ローマ支配時代、ローマ人は、オリンピック大会に出場することを誇りとした。
中でもネロの逸話は真偽はともかく有名である。
ネロはオリンピック大会の戦車競走に自らが参加し優勝を勝ち取ったというのだ。
マケドニアのフィリッポス2世や数多くのギリシャの僭主たちもオリンピックで勝利を勝ち取ったが、選手として出場したわけではない。
しかし、ネロは自分自身が戦車の御者として参加し、ずるをして勝利を勝ち取ったと、スエトニウスは伝えている。
ネロの悪名に関しては、尾ひれをつけたであろうエピソードはつきないが、このエピソードの存在は、ローマ人がオリンピック大会をいかに偉大な祭典として捉えていたかを証明している。

そして、オリンピックを最も重要視したローマ皇帝はハドリアヌスである。五賢帝時代の皇帝ハドリアヌスは大のギリシャ心酔者として知られる。
ハドリアヌスのコインの肖像は、豊かな髭をたくわえた哲学者風のギリシャスタイルで表されたこともそれを物語る。




ハドリアヌスの皇帝在位期間は117-138年の約20年であったが、彼は在位期間のほとんどをイタリアの外で過ごしている。
特にギリシャには長期的に何度も滞在した。
125年、ハドリアヌスはギリシャに滞在し、その年の126回オリンピック大会に出席した。
ハドリアヌスの時代は古代オリンピックの第2の黄金期といわれる。
ハドリアヌスはオリンピックの聖域を奨励し、アテネにはオリンピアのゼウス神殿を模した、オリンピア・ゼウス神殿までも建造している。
アテネのオリンピア・ゼウス神殿には、世界の7不思議のフェイディアス作の巨大なゼウス像を模したゼウス像と、ハドリアヌスの彫像がおさめられた。

そして、このハドリアヌスのオリンピック参加の年、オリンピアを管轄するエリスでコイン発行が復活した。
ギリシャでは、ローマの支配によって、前1世紀以降、コイン発行はほとんど中止されていたが、ハドリアヌスの時代、一時的にエリスでのコイン発行が息を吹き返したのである。
しかし、発行されたのは、かつての前5世紀、オリンピア黄金時代のような壮麗な銀貨ではなく、銅貨のみであった。

ローマ時代にエリスでコインが発行されたのはハドリアヌスの時と、それから約70年後、セプティミウス・セウェルス、その妻ユリア・ドムナ、そして彼らの息子カラカラとゲタの時だけであり、これらのコインの現存数は極めて少ない。




オモテ面にはかつてのゼウス、ゼウスを象徴する鷲、ヘラにかわって、ローマ皇帝ハドリアヌスの肖像が刻まれた。
ウラ面には「エリスの」を意味するHΛEIΩNの文字が刻まれている。
ゼウスの祭典オリンピック開催地エリスでのローマ皇帝崇拝の受容が見て取れるコインである。



<古代オリンピックの終焉>

前4世紀以降のローマ帝国の衰退、キリスト教の発展によって、古代オリンピック終焉へと向かう足音は徐々に響き始めていた。

コンスタンティヌスによってキリスト教がローマの国教となり、ついに392年、テオドシウス1世はすべての異教の祭儀を禁止した。




最後のオリンピック大会がいつであったのかは正確にはわからないが、テオドシウス1世の禁止勅令を基準に、393年の262回オリンピックが最後と説明されることが多い。
それ以降も少しは何らかの形で大会が続いたと考える説もある。

しかし、そうだったとしても426年以降はありえない。
426年テオドシウス2世は異教神殿破壊令を出したからである。



オリンピアの魂であるゼウス神殿は破壊され、フェイディアス作のゼウス像はコンスタンティノ―プルに運び去られた。
悲劇としか言いようがないが、運びされたゼウス像は後の火災で焼失してしまったという。

その後、522年の地震によって、オリンピアは完全に崩壊し、さらに川の氾濫によって地中に眠った。
再びオリンピアが遺跡という姿になって目を覚ますことになるには、約1000年後、18世紀、イギリスによる発掘によってであった。

(2019年1月16日掲載 執筆者:中村めぐみ)
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