パリシイ族 貨幣の歴史



フランスの首都パリのメトロ7号線、ポン・ヌフ駅のプラットホームに降り立つと、パリで発行された数々のコインのレリーフが美しい川の流れのように、壁や天井に装飾されているのを見ることができます。
パリのメトロのプラットホームには、各駅のテーマに沿って、異なった装飾が施されているのですが、ポン・ヌフ駅はすぐ上にパリ造幣局があるため、プラットホームはパリの貨幣をモチーフにお洒落に彩られているのです。
その壁や天井に飾られたコインのレリーフでできた川は、パリの貨幣の歴史を表しているわけですが、その川の水源ともいうべき、先頭のコインは、古代パリに生きた人々、パリシイ族が発行した金貨です。このコインはケルト美術の中でも最高峰の美しさといわれ、ケルトコインのシンボルとして扱われています。


筆者撮影

パリシイ族は、ローマがガリアを征服する以前にパリとその周辺の地域に居住していたケルト民族であり、「パリ」の語源もこのパリシイ族に由来しています。
パリシイ族、もしくはパリシイ族の前身となったケルト人が、パリとその周辺の地域に居住し始めたのは、おそくとも前3-前2世紀でした。それは、パリ周辺のヴァル・ドゥ・マルヌ、オルリー、ロワジーなどから前3-前2世紀のものと推定される、戦車や武器がいっしょに埋葬された、貴族戦士と思われるケルト人のお墓がいくつも見つかっていることにより証明されています。

パリシイ族について、最初に言及したのは、ローマ帝国の基礎をつくったユリウス・カエサルです。カエサルはガリアでのケルト人討伐を記した『ガリア戦記』の中でパリシイ族について述べています。
カエサルによれば、パリシイ族はルテキアというセークァナ河(セーヌ河の古称)に浮かぶ島をオッピドウム(要塞都市)としていました。前52年、カエサルの部下ラビエヌスに率いるローマ軍と、年老いた戦士カムロゲヌス率いるパリシイ族の兵士たちがルテキアで一戦を交え、攻防を繰り返しましたが、ローマ軍の勝利に終わりました。
ルテキアは、セーヌ河に浮かぶ島であるとカエサルが述べたことから、現在のシテ島であると考えられていますが、シテ島からは、ガリア戦争時期のオッピドウムの跡は見つかっていません。

また、近年パリの北西に位置するナンテールからは前3-前1世紀の地層と推定される、ケルト人の大規模な埋葬地、居住跡が発掘され、パリシイ族の解明に光を射しました。 ナンテールは島ではありませんが、ちょうどセーヌ河が湾曲している場所に位置しているため、カエサルが島と勘違いしたことも考えられるので、ナンテールこそがルテキアであるという説もあがりました。しかしながら、パリシイ族の繁栄の象徴である金貨や貨幣の発行所などの発見はありませんでした。
いっぽうパリにおいては、パリシイ族の金貨の発見の事例が数多く見られるのです。



1866年、1904年にはパリ南東部のシャラントンで100枚の金貨の埋蔵金が発見され、続いて1909年にはパリのラスパイユ通りで34枚もの埋蔵金が見つかりました。
近年でもっとも注目すべき発見は、1950年、パリ北西部のピュトーでの道路の拡幅工事の際に、つぼに収められた120枚ものパリシイ族の金貨が発掘されたことです。その内の約半分がパリ国会図書館によって写真に残され、報告書としてまとめられました。
その中の一枚が下の写真のクラス5の金貨ですので、ご覧ください。

パリとその周辺でのパリシイ族の大量の金貨の発見が、パリがガリア独立時代に、高価な貨幣利用を必要とする都市、またその都市の近辺であったことを証明しているのです。

それでは、古代パリの繁栄の証である、パリシイ族の貨幣の歴史を紹介していきます。 ガリアでの最初の貨幣発行は紀元前4―前3世紀に、ケルト人がマケドニアのフィリッポス2世のスタテル金貨を模倣発行したことに始まりました。
当時、地中海世界で傭兵として活躍していたケルト人は、その報酬としてマケドニアのスタテル金貨を手にしました。マケドニアのスタテル金貨は、東はインド、西はギリシア、エジプトにまで流通した「古代のドル」とも言われる貨幣でした。このスタテル金貨を手にすることができたガリアの傭兵は、それを単なる兵役報酬としてだけではなく、地中海世界の王から授かった勲章として、大事に故郷に持ち帰ったのでした。
また当然、ガリア社会の貴族階級に属していた人々の奢侈品の交換のためにマケドニアのスタテル金貨が使用されたことも推測できます。


筆者撮影

このように、ガリアにマケドニアの金貨が流入し始めたわけですが、その貨幣を模倣発行するに至った当時、ガリアの社会的背景はどのようであったのでしょうか。
紀元前4-前3世紀ごろのガリア世界は、国家として統一されておらず、ガリア人は有力者を中心とした部族単位でまとまって生活していました。権力者によって組織化された社会ではなかったため、外国に出稼ぎに行くように、ヘレニズム世界で傭兵として戦って富を得た者たちが有力者となっていくことも多かったと推測できます。
ケルト学の第1人者である、ヴァンセンラス・クルータは前4世紀から前3世紀にかけてのガリア社会をたっぷりした横糸で織られた織物に例えました。その織物は力の程度も人種も違うさまざまな人間集団が驚くべき流動性を持って動き回る中を横切り、あちこちで土地や富や戦いの栄光を手に入れんとする野望にとりつかれた民族分子によって構成されていたと表現しました。 それぞれ色の違う糸にたとえられた各部族。富を得たいという原動力をエンジンとした機織機。それらが動き出し、近隣の部族と影響し合いながら織り込まれ、ガリアがひとつの国家でなかったにもかかわらず、文化的に類似性をもった地域が誕生したのでした。

このような揺籃期のガリアの社会共同体に、ガリア傭兵たちがもたらしたスタテル金貨が流れ込み、それを手にしたガリアの権力者は貨幣の有効性、利便性に気づき、部族単位で独自の貨幣を発行するに至ったのでした。
ガリア人は貨幣発行初期は、マケドニアのスタテル金貨のデザインを模倣していたに過ぎませんでしたが、前3世紀―2世紀になると、ガリアの部族の中で特に北部に居住していた部族は、貨幣意匠を独自のスタイルに発展させ、ケルト的要素を貨幣図像上に押し出していったのでした。つまり、他の壮麗なケルト美術品に見られるようなケルト様式とギリシア=エトルリア様式が融合したラ・テーヌ様式がようやく貨幣の図像にも現れて来たと言えます。
特にガリア最北部に居住していた、ベルガエ系の民族が発行した紀元前3-前2期ごろの貨幣デザインは斬新さと美しさを兼ね備えており、その後のケルトコインに大きな影響を与えました。
下の写真のコインがベルガエ族が前3世紀-前2世紀に発行した金貨です。


筆者撮影

オモテ面の肖像にご注目ください。肖像はフィリッポス2世のスタテル貨のアポロンの面影は全くありません。顔のサイズは、貨幣の表面の6分の1ほどしかなく、髪の毛が文様化して図像の大部分を占めています。そして髪の毛の下からは、光が射すように、いくつもの線が首元にむけて延びています。この肖像は、ケルト人が誰を表したのかはわかっていませんが、その人間離れした姿から、神であることが推測できます。原型となったマケドニアのスタテル貨の肖像は、太陽神アポロンでありますが、ケルト人が表したこの神も、まるで太陽が光を放っているかのような印象を私たちに与えます。
続いて、裏面の馬にご注目ください。マケドニアのスタテル貨の裏面と比較すると、馬は御者の操りから解放された自由なスタイルで表現されています。馬は人間の道具などではなく、私たち人間と同じ、もしくはそれ以上に崇高な動物としてケルト人が捉えていたことが感じ取れます。
このベルガエ族の新しい貨幣デザインは他の部族に多大な影響を与え、貨幣の裏面に自由な馬を刻むスタイルは、ケルトコインの中で主流となっていったのでした。

パリシイ族は貨幣発行に際し、上写真のベルガエ系部族の貨幣の影響を受けつつ、さらに意匠を洗練されたものに発展させました。
パリシイ族の貨幣のデザインはケルトコインの中でも最高峰の美しさと認められ、フランスでは、切手や装飾品のデザインにも取り入れられています。
しかしそれほどまでに美しく、有名なコインでありましたが、学者による論理的な研究がされはじめてから、まだ日が浅いのです。
様々なのタイプが発見されていたパリシイ族の貨幣は、1970年のコルベール・ドゥ・ボウリュウの科学的な研究によって、細かく分類がなされました。彼は論文「パリシイ族のガリアコイン Les monnaies gauloise des Parisii 」の中で、パリシイ族のコインを7つのタイプに発行順に分類しました。この分類は貨幣学者たちに広く受け入れられ、パリシイ族の貨幣について取り上げる際は、コルベール・ドゥ・ボウリュウのクラス分けが使われるようになりました。
2003年にはシルズがパリシイ族の研究を含んだ「ガリアと初期ブリタニアの金貨発行」という論文で新たなパリシイ族の貨幣のクラス分けを行いました。しかしこの論文では、パリシイ族の貨幣発行所をA,B,Cの3つに分け、さらにその中でクラス分けをするという複雑なものでありますので、本ページでは、シルズの研究でも基礎となっているコルベール・ドゥ・ボウリュウの分類を取り上げたいと思います。
コルベール・ドゥ・ボウリュウは、類型学、計測学、金質の数値の観点から、パリシイ族の金貨を7つのクラスに分けました。その7つのクラスは、パリシイ族の社会的状況の変化があった3つの期に分類できます。



第1期(クラス1~クラス4)
これらのクラスは重量と金質が共に高く、統一性が見られることから、おそらく発行期間は長期に渡り、パリシイ族が政治的安定、河川輸送による経済的繁栄を謳歌していた時代のものであると推測できます。


筆者撮影


筆者撮影

第2期(クラス5とクラス6)
クラス5とクラス6は発行数が増加し、金の含有量がスタテル貨1枚につき、約半グラム低下しました。クラス5とクラス6のコインはガリア戦争の前夜、混乱を感じ始めた時期の発行と考えられます。パリの中心部から北西約8,7キロメートルに位置するピュトーから、クラス5のタイプの金貨約120枚が埋蔵品として1950年に発掘されましたが、これはガリア戦争前夜に資産を埋めて隠したことを推測させます。


筆者撮影

第3段階(クラス7)
クラス7のパリシイ族のコインは、クラス1に比べて金質が約2分の1になってしまいました。クラス7は、前52年頃に発行されたと推定されているヴェルキンゲトリクスと刻まれたアルウェルニー族の金貨と金質と外見が類似することから、同時期に発行されたと考えられてましす。すなわち、ガリア戦争時に発行されたと推測できます。


筆者撮影



パリシイ族はルテキアでの戦いで敗北した後、ガリア戦争最後の決戦となったアレシアの戦いで8000人の兵士を送ったとカエサルが述べたことからも、クラス7の貨幣が危機的状態の中での発行であったことが理解できます。

ガリア戦争後は、パリシイ族は金貨の発行はなくなっていったと考えられていますが、ローマがガリア人に金貨の発行を中止させたと考えるより、ローマ軍の略奪やローマへの税の支払いのために、もう金貨を発行できる状況になかったと考えるほうが自然であります。

以上はパリシイ族の金貨の発行についてでしたが、パリシイ族は金貨の他に、銀貨とブロンズ貨を発行しました。しかし、銀貨については、発掘に関する情報が少なく、また現存しているコインが非常に少ないため、詳しいことはわかっていません。


筆者撮影

ブロンズ貨に関しては、北ガリアのブロンズ貨は、ポタンと呼ばれると鋳造貨と打刻貨があり、パリシイ族も、鋳造貨と打刻貨の両方を発行しました。20世紀初頭の研究では、すべてのブロンズ貨はガリア戦争後、金貨の発行が不可能になり、その代替としてブロンズ貨を発行し始めたと考えられていました。しかしここ20年で北ガリアの独立時代に居住されていた場所の発掘が進み、鋳造貨の発行はすでに紀元前2世紀には始まっていたことがわかりました。
パリシイ族も紀元前2世紀ごろから、以下の写真のブロンズ鋳造貨(ポタン)を使用していたことがわかっています。


筆者撮影


筆者撮影

その後、紀元前1世紀に入ると、パリシイ族はブロンズ打刻貨も発行するようになりました。
パリシイ族のブロンズ打刻貨は、文字が入っているものが多くなります。これらの文字は何を示すのか正確にわかっていませんが、おそらく部族の中の有力者の名であると考えられています。


筆者撮影

上写真のタイプのブロンズ貨は、パリ6区のリュクサンブルク公園近くで発掘された、竪穴式の貴族戦士のお墓から発見されたものです。直径1,35m、深さ7mの竪穴に埋葬されていた35歳ぐらいの男性の遺骨は、戦士と思われる格好で、アンフォラ、陶器の破片、動物の骨、コインと共に発見されました。
この竪穴式のお墓が発掘された場所は、パリのローマ都市の中心地に近すぎるため(パリ・ローマ都市の墓地(ぼち)は中心地より少し離れたところにつくられました。)、この男性はパリでローマ都市化が進む前に埋葬されたと考えられています。
それゆえ、コインのデザインもまだローマの影響は受けていません。オモテ面の肖像の髪の毛は風になびいたようなケルト独自の自由なスタイルです。ウラ面の人面馬、その馬を操るのは人間ではなく鳥で、ケルト人の動物崇拝が感じ取れる図像です。

同じく、文字が刻まれたパリシイ族のブロンズ貨で、ECCAIOSと刻まれているタイプがありますが、このコインは前述のコインの発行より後に、パリシイ族にローマ文化が入ってきた頃に作られたと考えられています。


筆者撮影


筆者撮影

ECCAOSと刻まれたコインは写真の2種類ありますが、上の写真のタイプのコインは前47-前46年に発行されたカエサルのデナリウス銀貨の図像の影響を受けており、発行されたのは、紀元前40年以降であると推定されています。


筆者撮影

写真のカエサルのデナリウス銀貨とECCAIOSのブロンズ貨を比較しますと、表面のヴィーナスの髪型のデザインの影響を、ECCAIOSのブロンズ貨の肖像は受けていることがわかります。しかし、ヴィーナスの髪飾りの部分は、ECCAIOSの方は渦巻き文様というケルト的な要素が残されています。
ガリア戦争後、ガリア全土がローマの支配下に置かれ、パリシイ族に徐々にローマ文化が入っていったことが、コインの図像からも読み取れるのです。

パリシイ族が貨幣を発行したのは、前2世紀から前1世紀という非常に短い期間でありましたが、彼らはギリシャコインを原型として、ケルト美術最高峰の美しさを誇るコインをつくりだし、さらにはガリア戦争後は、ローマ的なデザインをすばやく貨幣意匠にとり入れたのでした。

このパリシイ族の意匠表現の豊かさは、現在も世界の文化の中心都市であり続けるパリの人々へと受け継がれているのです。