<古代コイン芸術展 第1部ー2章 ローマ共和政の終焉 ブルータスの3月15日のイデオロギー ブルータスのコインから見るブルータスの実像>

 

<プロローグ>

 [前42年発行、ブルータス最後のデナリウス銀貨]

 

ここに世界で最も有名な古代コインがある。

前44年3月15日に、カエサルを暗殺したブルータス(マルクス・ユニウス・ブルートゥス)が発行したコインである。

ブルータスは、カエサル暗殺の2年後、前42年に、このコインを発行した後、オクタウィアヌス・アントニウス軍に敗れ、自決するに至った。

 

なぜこのコインが世界で最も有名な古代コインと呼ばれるか。

それは、このコイン自体が、歴史を動かした大事件、前44年3月15日のカエサル暗殺を物語る超一級の史料であるからだ。

 

コインオモテ面にはブルータス自身の肖像、ウラ面には短剣2本とピレウス(自由を意味する帽子)、その下にはEID MARの文字が刻まれている。

 

まず、着目してほしいのは、EID MARの文字である。

これは、ラテン語idus martiaeの略で、マルス月のイドゥスを意味し、現在私たちの暦の3月15日にあたる。

3月15日といえば、古代ローマに通じた方は、すぐにカエサルが暗殺された日とおわかりかと、存ずるが、多くの方は、なぜコインに日にちが刻まれたのか疑問に思われることであろう。

 「なぜ日にちがコインに?」という疑問こそが重要であり、これからブルータスのコインを読み解く1つの鍵となる。

 

次に、文字EID MARの上の2本の短剣を見てほしい。

これらは古代ローマでpugio(プギオ)と呼ばれた、ブルータスがカエサルを刺し殺した短剣である。

人を殺した武器を堂々とコインに刻んだことは、私たち現代日本人には違和感を覚えることかもしれない。

この違和感も、これからこのコインを読み解くもう一つの鍵である。

 

私たちはブルータスが権力闘争の歴史において敗者となったことを知っている。

それ故に、このコインに刻まれた短剣を見た時に「暗殺」のイメージが湧いてくるのは自然なことである。

しかし、もしブルータスが歴史の勝者となっていたら、このコインに刻まれた短剣は勝利のシンボルとなっていたのである。

 

とかくブルータスという人物像は捉ることが難しい。

これまで、歴史家、さらには芸術家たちが様々にブルータス像を掴むべく模索してきたし、それは人間が存在する限り続いていくだろう。

例えば、シェイクスピアは彼を善人として描いたが、一方、ダンテは彼を悪人として捉えた。

ブルータスという、二面的な捉え方をされる人物像は、ミステリアスであり、人間とはなにかという問題提起となってきた。

 

これから紹介する一連のコインは、当時ブルータスによって発行されたもので、ブルータス自身が遺した、現存する唯一の史料である。

コインの他には、ブルータスの書簡が写本により伝わるが、当時の原本は存在していない。

ブルータスが生きていた当時に、ブルータスによって発行されたコインには、当時のブルータスの意志が意匠となって刻みこまれているのだ。

 

本章ではブルータスのコインを考察することで、真のブルータス像に近づいていきたい。

 

 

 

<1節:ブルータスが発行した最初のコイン>

 

ブルータスは前91-82年頃に出生した。

この時ローマは、スッラとマリウスの対立による内乱、続く独裁官スッラの就任という、激動の時であった。

つまり、ローマ共和政という名の、ブルータス家が属する階級が支配していた貴族寡頭政が、終焉へと徐々に向かおうとしていた時期であったのだ。

 スッラは軍事と政治を強く結びつけた恐怖政治で知られる。ローマ人ながらローマに初めて進軍し、元老院を脅し、東方での軍事権を掌握した。

 この時代、スッラの元で活躍し、力を得たのは、後にカエサルとの三頭政治で知られるポンペイウスであった。

77年、内乱によって、ブルータスの父はポンペイウスに殺害された。

この時のブルータスはまだ10歳程度であった。

 

その後、ブルータスの母セルウィリア・カエピオニスはデキムス・ユニウス・シラヌスと再婚したが、デキムス・ユニウス・シラヌスも前59年頃に死去した。

この頃にブルータスは、母セルウィリアの兄弟の養子となり、カエピオの名を名乗るようになった。

母セルウィリアは野心的で、政治的影響力を持った女性であった。

なお、セルウィリアはカエサルと愛人関係にあったことから、ブルータスはカエサルの子であるという後世のゴシップが存在するが、これはあくまでも歴史を面白くしようとするゴシップにすぎない。

 

ブルータスの名が初めて史料に登場するのは、前59年に起きたVettius事件(ウェッティウス事件)である。

ルキウス・ウェッティウスという謎の人物が、当時ローマで最も有力な富豪となっていたポンペイウスの暗殺計画があることを告発したのだ。

ウェッティウスは、前62年のカティリーナの陰謀の時に、キケロに情報提供したことで名を売った、謎多き情報屋であった。

ウェッティウスはコンスル(執政官)のビブルス、スクリボニウス・クリオ、そしてブルータスがポンペイウス暗殺計画を企てていると訴えたのだ。

しかし、この情報を信じる者はおらず、逆にウェッティウスが牢獄に入れられてしまったのであった。

ウェッティウスは、明くる日の答弁で、ブルータスの名を一切出さなくなり、結局、ウェッティウスは牢獄の中で死んでいるのが見つかり、事件は幕を閉じた。

この謎めいたウェッティウス事件の真相は闇に包まれているが、もしかすると、ブルータスの政界進出を阻止する陰謀が失敗したことを意味しているのかもしれない。

 

翌前58年、ブルータスは叔父カトーのキプロス赴任について行き、前56年頃にはローマに戻ってきたと推測されている。

 

その後、前54年頃、ブルータスは貨幣発行三人委員として、始めてコインを発行した。その時のコインが以下の2種類のデナリウス銀貨である。

貨幣発行三人委員という役職は、共和政ローマの公職者のキャリアの門出であり、この役職に就いた後にクァエストル(財務官)に就任することが多かった。

 

最初のコインは、ブルータスの家柄を最大限にアピールする意匠が使われた。

ブルータスは、翌前53年のクァエストル(財務官)当選に向けて、誇れる家柄をコインでアピールしたと推測される。

 [前54年発行デナリウス銀貨 ブルータス最初のコイン]

 

上写真のコインには、両面にブルータスの祖先の肖像が刻まれた。

オモテ面にはローマ共和政の創始者ルキウス・ユニウス・ブルートゥスの肖像とBRVTVSの銘が刻まれている。

ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは、前509年、傲慢王と呼ばれたタルクィ二ウスを追放して、王政ローマを終結させ、ローマで初めて選挙でコンスル(執政官)に就き、共和政を開始した人物である。

傲慢王タルクィニウスが追放される契機となったのはルクレティアの凌辱事件であった。

タルクィニウスの息子セクストゥスがコッラティヌスの妻ルクレティアを凌辱し、それを恥じたルクレティアは短剣で自害したのであった。

この凌辱事件を皮切りに、王政に対する不満が爆発し、タルクィニウスはローマから追放された。

ブルートゥス、コッラティヌスの2名が、選挙により初代コンスル(執政官)となった。

この時ブルートゥスは、ルクレティアが自決した血塗られた短剣を手に取って、二度とローマに王を置かないと誓ったのであった。

プルタルコス(1-2世紀のギリシャ人の歴史家)によれば、短剣を手にした初代コンスル、ブルートゥスの彫像がカピトリーニの丘に建っていたという。

このローマ共和政開始のエピソードは伝説であり、ローマ共和政を支配していた貴族たちが、自身の威厳を高めるために、前2世紀頃に創作したと推測されている。

 

コインウラ面にはガイウス・セルウィリウス・アハラの肖像が刻まれている。

この人物も伝説上の前5世紀の英雄で、ブルータスの母セルウィリアの祖先とされる。

439年、アハラは独裁者になろうとしたスプリウス・マエリウスを脇の下に隠し持っていた短剣で暗殺し、ローマ市民の自由を守ったと云う。

「アハラ」は彼が短剣を隠し持っていた「わきの下」を意味するとされる。

 

以上のように、ブルータスがコインに刻んだ祖先の英雄は、どちらも短剣によって、暴君からローマ共和政を守った人物なのである。

44年3月15日の短剣によるブルータスのカエサル暗殺は、これらの祖先の短剣の伝説を踏まえての行為であった。

 

 [前54年発行デナリウス銀貨 ブルータス最初のコイン]

 

そして、上写真のコインのオモテ面には女神リベルタスの肖像とLIBERTASの銘が刻まれている。

LIBERTASリベルタスはラテン語で「自由」を意味し、肖像はリベルタスを神格化した女神リベルタスである。

共和政ローマにおけるリベルタスとは、市民が暴君に支配されず、市民が官職を選任する自由がある状態を意味した。

リベルタスはブルータスにとって、政治理念の根本であった。

 

ウラ面にはBRVTVS(ブルートゥス)の銘とリクトルに率いられて行進するローマ共和政の創始者、ルキウス・ユニウス・ブルートゥスが刻まれている。

4人の中で、右から2番目がルキウス・ユニウス・ブルートゥスである。ブルートゥスの前後の2人がリクトルである。

リクトルは高官を先導する警吏で、左肩にファスケス(束かん)を持って高官を保護した。

先頭で列を率いているのはアッケンスス(官吏)である。

 

以上のように、ブルータスは最初に発行した2枚のコインどちらにも、自身の偉大な先祖を刻んだのである。

コイン発行時、20代後半から30代前半であったブルータスは、政界進出にあたって、共和政ローマを開始した名門出身であることを、コイン意匠でアピールしたことがうかがえる。

 

これらのコインが発行された時期のローマは、カエサル個人の権力が強大になり、元老院が弱体化していった時期であった。

59年、カエサル、ポンペイウス、クラッススは、同盟を結んで(第1回三頭政治)、カエサルはコンスルに就任した。

58年には、カエサルはガリア遠征に出発し、カエサルに対抗していたブルータスの伯父カトーはキプロスに赴任させられ、ブルータスもカトーについてキプロスへ向かった。

56年、ルカの会談で、カエサル、ポンペイウス、クラッススの同盟は延長され、ローマ共和政は、独裁政へと向かってさらに足を速めていった。

 

ブルータスは、これらの最初のコインを発行した前54年頃、アッピウス・クラウディウス・プルケルの娘クラウディアと結婚している。

クラウディウス・プルケルは、前54年のコンスル(執政官)で、ローマ貴族の中で最も有力な家柄であり、元老院において多大な影響力を持っていた人物であった。

ブルータスは、婚姻関係により、元老院の重鎮と強く結びつくことで、元老院での権力を確固たるものにしたかったことが推測される。

義父クラウディウス・プルケルは、すでに前55年に、クラウディアの妹をポンペイウスの息子グナエウス・ポンペイウスと結婚させていた。この結婚はポンペイウスが元老院と結びつき始めたことを示しており、これによりクラウディウス・プルケルは翌年前54年のコンスルに就任することができたといわれる。

 

ブルータスが初めてコインを発行した前54年は、このような情勢であった。

ローマ共和政創始伝説の英雄たちを強調したコイン意匠からは、カエサルの三頭政治を目の当たりにして、ローマ共和政が元老院の手中から徐々に離れつつあることを抑止したかったブルータスの意志が、読み取れるのではなかろうか。

 

ブルータスがこの後コインを発行するのは、最初のコイン発行から12年後、カエサル暗殺後にローマを離れ、東方で旗上げした、前42年のこととなる。

本章冒頭で紹介した、世界で最も有名な3月15日の短剣のコインをはじめとした、他一連のコインである。

42年、ブルータスはこれらのコインを発行して、カエサル派とマケドニアのフィリッピで戦い、敗れ、そして自決した。

つまり、前42年にブルータスが発行したコインは、ブルータスが、人生最期の年に、何を信じ、戦いに挑んだのかを伝える、いわばブルータス最期のメッセージである。

 

次節からは、ブルータスが最後のコインを発行するに至るまでを追っていく。

 

 

<2節:カエサルとポンペイウスの内乱時のブルータス>

 

ブルータスが最初のコインを発行した年の翌年、前53年、三頭政治の1人、クラッススがパルティア遠征中に戦死した。

このクラッススの死と、ポンペイウスと政略結婚していたカエサルの娘ユリアが死亡したことによって、三頭政治は事実上崩壊した。

ポンペイウスは、徐々にカエサルと距離を置き、元老院との距離を縮めていたのだ。

 

さらに、前53年、ローマは来年の高官選挙をめぐる争いによって、混乱状態に陥った。

カエサル派のプブリウス・クロディウス・プルケルがプラエトラル(法務官)選挙に立候補し、解放奴隷を優遇する選挙制度改革を約束した。

クロディウスは、解放奴隷に徒党を組ませ、暴力で選挙を勝ち取ろうとした。

一方、クロディウスの政敵、元老院派のティトゥス・アンニウス・ミロはコンスル(執政官)選挙に立候補しており、クロディウスに対抗して剣闘士の集団や犯罪者からなる徒党を組んだ。

双方の暴力行為が増したために、選挙の開催は不可能となり、ローマは執政官や高官が不在のまま、新しい年、前52年を迎えることとなった。

共和政ローマは無政府状態に陥ったのだ。

 

このような状況の前53年、ブルータスは義父クラウディウス・プルケルについてキリキア(現トルコ南部)に赴任していた。

クラウディウス・プルケルは前54年の執政官任務を終えた後、前53年から属州総督として2年間キリキアに赴任した。

 

キリキアは小アジア南東部(現トルコ)沿岸地方で、約10年前にポンペイウスによって制圧された属州であった。

属州総督の任務は、属州での課税、財政運営、司法、軍事等であった。

都市ローマの様々な監視の目から逃れた属州は、自由な裁量で統治可能な、いわばおいしい場所で、属州総督を務めれば、個人的に相当の財産を蓄えることができたのだ。

その代表的な例がカエサルのガリア支配であり、カエサルはガリア属州総督として富を築いたことにより、金貨、銀貨の多くのコインを発行することができた。

 

52年、無政府状態のまま年を明けたローマで、さらに都市を混乱に陥らせた事件が起きた。

118日、カエサル派のプブリウス・クロディウス・プルケルが元老院派のミロにアッピア街道で殺害されたのである。

突然のリンチによる公職者の殺害は、ローマにおいて法と秩序が崩壊したことのあらわれであった。

 

殺されたプブリウス・クロディウス・プルケルはブルータスの義父アッピウス・クラウディウス・プルケルの弟であった。

クロディウスは、扇動的な人物として知られ10年前のボナ・デアの秘儀のスキャンダルの当事者であった。

前62年、ボナ・デアの秘儀はポンティフェクス・マキシムス(最高神祇官)を務めるカエサルの自宅で行われた。

女神ボナ・デアに捧げる秘儀は男人禁制であったにもかかわらず、クロディウスはカエサルの妻ポンペイアを誘惑するために、女装して秘儀に参加したのだった。

しかし、すぐにクロディウスの正体は、ばれ、秘儀は中断されるという異常事態が起きたのである。

神への冒涜としてクロディウスは告発されたが、有力な貴族であるクロディウスと波風を立てたくはなかったカエサルは、妻ポンペイアと離縁して事をおさめた。

これ以降クロディウスはカエサル派となっていった。

 

そして前58年、クロディウスは貴族出身ながらもトリブヌス・プレビス(護民官)に立候補した。護民官はプレブス(平民)を保護するためにプレブスのみが就く官職であった。

クロディウスは養子縁組によってプレブス(平民)となり、元々のクラウディウスというパトリキ(貴族)の氏族名も平民らしいとされたクロディウスに改名し、晴れて護民官に選任されたのである。

この官職の存在意義を無視した護民官就任劇は、カエサルの三頭政治の政略の1つであった。カエサルは、クロディウスを護民官に就任させ、元老院に対抗しようとしたのであった。

カエサルがガリア遠征で不在の間、ローマでカエサル派としてクロディウスが活動していたのに対して、元老院は護民官ミロを使って、カエサルに対抗したのだった。

 

52年、クロディウス殺害の後、法と秩序を失ったローマは、さらなる混乱状態に陥った。

クロディウスの徒党は、クロディウスの亡骸を元老院議事堂に運び、薪の山を積んで、その場で火葬を行った。

これにより、元老院の象徴である、元老院議事堂は焼け落ちた。

混乱の中、元老院はポンペイウスを異例の単独コンスルに置いた。これは2名の執政官が牽制しあって共和政を指導するという、根本的なローマの政治原理を無視したことであった。

 

この混乱の最中のローマに戻ってきたブルータスは、政治パンフレットを執筆し、ポンペイウスの独裁を強く批判している。 

 

同年、ローマの混乱を機に、ガリアではアレシアで大反乱が起きたが、カエサルは鎮圧に成功し、ガリア族長ウェルキンゲトリクスを捕虜とした。

 

そして、翌年、前51年、ポンペイウスを熱く支持するマルクス・クラウディウス・マルケッルスがコンスルに就任すると、カエサルへの一斉攻撃が開始され、カエサルのガリアでの命令権を剝奪しようとする圧力が高まっていった。

 

この時期、前51-50年頃に、ブルータスはポンティフェクスに選ばれたと推測されている。

ポンティフェクスは、ローマの国家的な祭儀、行事、暦などを司っていた神官団である。

主に貴族層で構成され、カエサルの時代には15名いたことがわかっている。

ポンティフェクスは終身で、選任されることは名誉であり、権威の証でもあった。 

ポンティフェクスの長、ポンティフェクス・マキシムス(最高神祇官)を前63年から務めていたのはカエサルであった。

ブルータスのポンティフェクス選出にあたって、カエサルとブルータスの母セルウィリアは、愛人関係でもあったのだから、カエサルの力が働いた可能性は十分にあったのではないだろうか。

 

ポンティフェクスという地位が、ローマ社会において、如何に誇れるものであったかは、この時期のローマコインに、ポンティフェクスを象徴するシンボルがよく使われたことが証明している。

カエサルが最初に発行した前49年のコインには、ポンティフェクスの象徴である神祇の道具が刻まれたし、ブルータスも前42年に発行したコインにポンティフェクスの神祇の道具を刻んだ。

ローマ社会において、ポンティフェクスら神官は、神のお告げを受ける選ばれし者であり、超人的な力を持った存在であった。

ローマの公的な官職が、基本的に任期1年であったのに対して、神官たちは終身であった。これは彼らが法を越えた絶対的な存在であったことを意味している。

この内乱の時代、軍団に与えるコインに、ポンティフェクスのシンボルが多く刻まれたのは、神から認められたポンティフェクスが、軍を指揮しているのだから、勝利は神々に祝福された我らにあると、コインを受け取る軍人たちに確信させるためであったと推測できる。

 

そして50年、キリキア総督の任務から戻ったブルータスの義父クラウディウス・プルケルが、ambitus(賄賂)maiestas(反逆)の罪で告発された。

告発者はカエサル派のプブリウス・コルネリウス・ドラベッラであった。

もし、義父クラウディウス・プルケルが有罪となり、ローマから追放されれば、ブルータスのローマでの政治生命は危うくなってしまうのであった。

ブルータスは、ポンペイウス、そしてローマ随一の弁論家であったクイントゥス・ホルテンシウスと共に、義父の弁護を担当した。

彼らの弁護が功を奏し、ブルータスの義父は無罪を勝ち取ったのだ。

ブルータスは、この裁判の弁護によって、弁論家としての名声も得て、ローマ共和政を代表する政治家として順風満帆なキャリアをさらに歩んでいったのである。

 

しかし前49年、元老院に反して、カエサルがルビコン川を渡りローマを制圧してしまうと、ポンペイウス、そしてポンペイウスを支持する元老院の人士が、一斉にローマを離れた。

ブルータスは、前49年にポンペイウスと合流する前、キリキア属州総督となったプブリウス・セスティウスの副官として再びキリキアに居たことがわかっている。

 

そして前48年、カエサルとポンペイウスの対決、ファルサロスの戦いを前に、ブルータスはポンペイウスとマケドニアで合流した。

この戦いでブルータスは、実父をポンペイウスに殺された恨みから、カエサルの見方に付くと思われたが、私情は捨て人間的に尊敬できるポンペイウスを選んだとプルタルコスは伝えている。

また、この時期のブルータスの学問への熱心さを示すエピソードも、プルタルコスが残している。

ファルサロスの戦いが行われた頃は、夏の真っ盛りで、陣営があった場所は沼地で非常に暑さが厳しく、テントを運ぶ係が中々、ブルータスのところへはやって来なかった。

ようやく正午となり、僅かの食事をして、皆は休息を取りこれからの事を心配している中、ブルータスはポリュビオス(前2世紀のギリシャの歴史家)の書物の摘要を書くことに勤しんでいたという。

ポリュビオスは、ポエニ戦争に従軍した経験があり、ローマが地中海世界の覇者となっていく様を目の当たりしていた人物で、著作『歴史』は、特に第2次ポエニ戦争から第3次マケドニア戦争の終結までを記した。

 

ファルサロスの戦いでポンペイウスは敗北した。

ポンペイウスはエジプトに向うもその地で殺されたが、ブルータスはラーリッサ(ギリシャ・テッサリア)に逃げ生き延びた。

カエサルは、ブルータスが生きていることを知ると、寛大にもブルータスを仲間に迎え入れたと云う。

 

その後、前4847年、カエサルがエジプトに滞在した間、ブルータスは前47年初めに、再びキリキアにいたことはわかっている。

 

47年、エジプトを後にしたカエサルは、ボスポロス王ファルナケス2世を倒したゼラの戦い(カエサルが名言「見た、来た、勝った」を言った時)の後、ニカイアに立ち寄った。

ニカイアでカエサルは、ローマの内乱に巻き込まれたガラティア王デイオタロスの処遇や領土問題についての解決にあたっていた。

デイオタロスは、ポンペイウスの保護でガラティア王の称号を得ていた人物であったため、ファルサロスの戦いで当然ポンペイウスに与した。

ポンペイウスの敗北後、デイオタロスを保護するために、ブルータスはこの地で演説を行い、カエサルはデイオタロスを宥恕したのであった。

この時のブルータスの演説を聞いて、カエサルが語った言葉を、キケロは書簡に記している。

 

「この男が何を望んでいるかは大きな問いだ、だが何を望むにしても彼は強く望む」

 

さらに、キケロは書簡の中で、カエサルはブルータスの弁論を実に激しく自由闊達だと思っていたことを伝えている。

このカエサルの言葉からは、カエサルはブルータスの信念に共感することはなかったが、信念に捧げる情熱に対しては、尊敬の念を持っていたことがうかがえる。

 

カエサルが望んだこととは、ローマに富をもたらし、ローマが世界の覇者となることであった。

カエサルは、軍事力と富を手にし、元老院に縛られない独自の権力を確立することに成功し、さらなるローマの領土獲得を目指していた。

一方、ブルータスが望んだこととは、ローマ共和政の伝統的な政治形態、つまり、公職者、元老院、民会からなる混合政体の持続であった。

混合政体とは、選挙で選ばれた任期のある公職者(執政官など)、有識者からなる元老院議員、市民で構成される民会が、互いを牽制し合って理想の国家をつくることである。

ローマではカエサルの独裁によって、この政体が崩壊しつつあり、元老院を権力基盤にしていたブルータスは、益々自分たちの権力が弱くなっていくことを危惧していた。

ブルータスがファルサロスの戦いの際、合間を縫って勤しんでいたのはポリュビオスの摘要を書くことであったが、このポリュビオスこそが、前3-2世紀にローマが飛躍的に勢力を伸ばしていった理由は、この混合政体にあると述べた人物である。

ブルータスが望んだ国家とは、混合政体が行われる場であり、カエサルが望んだようにローマという場所を基地とした富の拡大ではなかったのである。

 

ブルータスは、自決する1年前の前43年、キケロに宛てた手紙の中で述べている。

  ―今後わたしは、隷従に甘んずる徒輩をはるかに遠ざかり、どこであれ自由の身たることを許される地をわが都ローマと思う(ブルートゥス書簡 第25書簡 『ローマ文学集』 高田邦彦訳)

 

 

さらに、前47-46年頃、ブルータスは哲学に関する著作を発表している。

De Virtue(徳について)』、『Perikathekontos(義務について)』、『De Patientia(忍耐について)』の三作が発表されたことがわかっている。

De Patientia(徳について)』の僅か3語 inridunt horum lacrimas(彼らは男たちの涙をあざ笑う)が、4世紀の文法家によって引用されたことで知られているだけで、残念ながら、これらの著作は、残りすべてが失われた。

 

しかし、幸運にも、セネカ(ネロの時代の哲学者)が母ヘルウィアに送った手紙にブルータスの『De Virtue(徳について)』についての記述があり、少しばかりこの書物についてうかがいしることができる。

以下引用するセネカの手紙は、セネカが紀元後41年、クラウディウス帝にコルシカ島に追放された時に、母ヘルウィアを慰めるために書かれた手紙である。

セネカは追放の身となっても、徳があればいかに幸福かを、ブルータスの書物の内容を交えて説明している。

 

 

 -『徳について』と題する書物の中で、ブルートゥスはこう語っています。

ミュティレーネーで亡命生活を送るマルケッルス(前51年の執政官)に会ったことがあるが、彼は、人間が与えられた本性の許す限り、この上なく幸福に暮らしており、あの時ほど、よき学芸への意欲に満ち満ちていたことはなかった、と。

 それゆえ、彼を亡命地に残して去るというよりも、むしろ彼をともなわずに帰国する自分のほうが亡命地に赴くように思われた、そう彼は付言しています。国家によってその執政官職を是とされた時よりも、ブルートゥスによってその亡命生活を是とされた時のほうが幸いであった、ああ、マルケッルス!一人の人間に、亡命者のもとを離れ去るという理由で、自分のほうこそ亡命者であると思わせた彼は、何と偉大な人物だったのでしょう!

 ブルートゥスは、またこうも語っています、カエサルは傑物が(亡命という)恥辱に耐えている姿を見るに忍びないという理由で、ミュティレーネーには立ち寄らずに通過した、と。

 実際、元老院が公的な請願を行ってマルケッルスの帰国がかなえられることとなりましたが、それは、元老院の全員があの日のブルートゥスと同じ気持ちを抱き、彼がいなければ自分たちが亡命者になるのではないかと恐れて、マルケッルスのためではなく自分たちのために彼の復権を請うているかに思えるほどの深い憂慮と憂愁に駆られてのことだったのです。それはそれとして、しかし、亡命者の彼をブルートゥスが置き去りにするに忍びず、カエサルが見るに忍びなかった日にこそ、彼ははるかに大きな栄誉を勝ち得たのです。なぜなら、彼は二人ともの証を得たのですから。ブルートゥスはマルケッルスをともなわずに帰国することを痛み、カエサルは恥じたのです。(ヘルウィアに寄せる慰めの書9ー4 大西英文訳 『セネカ哲学全集2』  

 

 

このセネカの手紙から、ブルータスが『徳について』を記した前4746年頃、ブルータスは、共和政ローマの理想と現実があまりにもかけ離れてしまったことを、酷く憂いていたことがうかがい知れる。

 

そして、ブルータスの憂いなどよそに、カエサルの勢いは増し続けた。

前47年、カエサルはローマに帰還したが、すぐにポンペイウス派の残党、カトー、スキピオと戦うために、アフリカに出征した。

 

カエサルは出発を前に、ブルータスをガリア・キサルピナの総督(プロコンスル)に任命した。

これは、未だクワエストル(財務官)までしか務めていなかったブルータスにとって、大抜擢であった。

通常、属州総督はプラエトル(法務官)、コンスル(執政官)を務めた者が担った。

さらには、ガリア・キサルピナという場所を任務地に与えられたことは、カエサルがブルータスを信頼していたことを意味している。

ガリア・キサルピナは、アルプス山脈よりもこちら側(南側)のガリアという意で、イタリア半島とまだ征服してまもないガリアを結ぶ重要な場所であった。

 

ブルータスがガリア・キサルピナで、具体的に何を行っていたかは記録が残されていないが、プルタルコスによれば、多くの属州民はローマ人統治者の貪欲の餌食となっていたが、ブルータスの統治でガリア・キサルピナの民の不幸は終結したと云う。

また、プルタルコスは、ガリア・キサルピナのメディオラヌムに建っていたブルータスの銅像の以下の挿話を残している。

オクタウィアヌスが後にアウグストゥスとなって、ガリアのブルータスの銅像の前を通過した時、立ち止まって、ガリアの役人たちを呼び出した。

アウグストゥスは、メディオラヌムがローマとの休戦条約を無視して、町に敵を入れているのを見届けたと言った。役人たちは何のことかわからずに顔を見合わせていると、アウグストゥスはブルータスの銅像を見つめ、「これが我々の敵なのにここに立っているではないか」と言ったので、役人たちは驚き黙り込んだ。

すると、アウグストゥスは笑って、銅像はそのまま置いておけと命じたと云う。

 

 

<3節:叔父カトーの死、その娘ポルキアとブルータスの結婚>

 

ブルータスがガリア・キサルピナ属州総督を務めた間、カエサルはスキピオとカトーを倒すためにアフリカに向かった。

 46年、タプソスでスキピオが敗れ、ブルータスの伯父カトーはウティカで自害した。

 ブルータスの伯父マルクス・ポルキウス・カトーは、厳格なストア主義者であり共和政を熱烈に支持し、長らくカエサルと対立していた人物であった。

 カエサルは、アフリカの地でようやくカトーを滅すことができたのであった。

 カトーの自決の壮絶さは語り継がれ、カトーは共和政の殉教者として、いわば聖人のような存在となった。

 

キケロはカトーへの賛辞を執筆し、続いてブルータスもカトーへの賛辞を執筆した。

 これに対しカエサルは、ヒルティウスと共に『反カトー』を執筆した。

 

 続いて、スペインのムンダの戦いで、カエサルが再び勝利し、ポンペイウスの長男グナエウス・ポンペイウスが死亡した。弟セクストゥス・ポンペイウスはスペインへと逃れた。

 死亡した長男グナエウス・ポンペイウスはブルータスの妻クラウディアの妹と結婚していた人物である。

 

 

45年3月頃、ブルータスはガリア・キサルピナからローマに帰ってきた。

 この直後、ブルータスはクラウディアと離婚し、カトーの娘ポルキアと6月頃に再婚した。

 クラウディアの父クラウディウス・プルケルは前48年、ファルサロスの戦いを前に死去しており、前45年、ムンダの戦いではクラウディアの妹の夫、グナエウス・ポンペイウスも死去した。

 クラウディアとブルータスの婚姻は、元老院の権力を強化するための政略結婚であったのだから、元老院の重鎮であった義父、そしてポンペイウスの長男の死によって、この婚姻は政略上、効力を持たなくなってしまっていたのだろう。

 そして共和政の英雄カトーが自決した今、その娘ポルキアと結婚することは、ブルータスの共和政支持の政治的立場からは意義深いことであった。

 

 キケロによれば、この結婚は世間にはスキャンダラスであったという。ブルータスが10年ほど連れ添ったクラウディアと突然離縁して、すぐにポルキアと結婚したことは人々を驚かせた。

 ブルータスの母セルウィリアもこの結婚を快く思っていなかったようである。カエサルの愛人であったセルウィリアは、息子が結婚によって反カエサルを表明していることは頼もしいことではなかったのである。

 

しかしポルキアという人物に関しては、共和政の英雄カトーの娘に相応しく、ブルータスを支えた良きパートナー、たぐいまれな精神的強さを持った女性であったことを示す多くの勇敢なエピソードが残されている。ブルータスの信頼を得るために自分の太ももを刺して耐えた話や、熱した炭を飲んで自殺した話などは、もはや共和政神話といえる。

 ディオ・カッシウス(『ローマ史』を記した3世紀の歴史家)は、ブルータスのカエサル暗殺はポルキアの扇動によって至ったと考えているぐらいである。

 ポルキアとの再婚から1年足らずで、カエサルはブルータスの剣に倒れたのであるから、そのような憶測が生まれるのも避けられないことであろう。

 

 しかし、カエサルにとっては、政敵カトーの娘ポルキアとブルータスの結婚は、ブルータスの評価になんら悪影響は及ぼさなかったようである。

前45年10月にムンダの戦いで勝利をおさめ、ヒスパニアからローマに帰還したカエサルは、ブルータスを前44年の都市管理を担うプラエトラル(法務官)に指名した。

 プラエトラルはコンスル(執政官)に次ぐ役職で、特にブルータスが任命された都市管理のプラエトラルはプラエトラルの中で最も重要なポストであった。

 前44年のコンスルに就任するのはカエサルとアントニウスであったから、ブルータスは前45年末、カエサルにとって、最も信頼し、そばに起きたい人物であったのだ。

 

 

<4節:王といえる存在、カエサル>

 

もはやローマにおいて公職者を選ぶ投票は意味をなさなくなっていた。

元老院はカエサルに公職者を指名する権利を与えていたし、カエサルの推薦状が投票集会で読み上げられると投票者たちのほとんどが、カエサルの指名した人物に投票した。

選挙で市民が公職者を選出する政体はもはや機能していなかった。

カエサルはローマの王といえる存在になっていたのである。

 

さらに、カエサルが王と言える存在になったことを示しているのは、この時期に行われた暦の改革であると筆者は考える。

45年、カエサルはローマの暦を、太陰太陽暦から太陽暦に改革した。

これに関しては次章で詳しく述べるので、本節では大まかに説明したい。

カエサルの暦改革によって、ローマに閏月はなくなり、1年の日にちは365(4年に1度は366)に固定された。

カエサルは、前45年を太陽年と一致した暦としてスタートさせるために、前46年を445日に延長させた。

通例の2月の後の閏月に加えて、この年は11月と12月の間になんと約60日もの閏月を挿入し、カエサルはこの年を「最後の混乱の年 annus confusionis ultimus」と呼んだのであった。

カエサルは、これからローマが世界大国になっていくために、暦の改革は必要不可欠と考え、それを実行できたことを誇りに感じていたに違いない。

しかし、ブルータスら他のポンティフェクス団は、これをどう思っただろうか。

閏月の挿入を始めとして暦の管理を行っていたポンティフェクス団にとっては、自分たちの権利が奪われ、さらには権威が希釈されたのである。

今や暦さえもポンティフェクス団ではなく、カエサルの手中にあった。

カエサルは時をも支配する者であることを、ローマの人々は思い知らされたのだ。

カエサルの暦はユリウス暦と呼ばれ、現在、私たち日本人が使っている暦の基礎となっている。カエサルは時空を超え、暦で私たちさえも支配しているといえるだろう。

このように、驚くべき行動力を持って、ローマを変えて行くカエサルは、ブルータスに恐怖を感じさせ、ブルータスの目に暴君として映ったのだ。

 

さらに前44年、終身独裁官という称号も得たカエサルは、事実上、ローマの王であった。

ローマはもはや共和政ではなく、カエサルによる君主制であった。

ブルータスにとって暴君に仕えることは、奴隷になるということであった。

暴君タルクィニウスを追放して共和政ローマを開始したルキウス・ユニウス・ブルートゥスを先祖としたブルータスには、カエサルの独裁政治を認めることはアイデンティティを崩壊させることであった。

 

イギリス人の古代哲学史家のDavid Sedley氏はブルータスのカエサル暗殺理由にはプラトニック・ドグマがあったと論じた。

プラトンは『国家』のなかで、国家の体制を6つに分けている。

1:法が守られた王政、2:法が無視された王政、3:法が守られた寡頭政、4:法が無視された寡頭政、5:法が守られた民主制、6:法が無視された民主制である。

プラトンは、この中で最悪なのは、法が無視された王政だとしている。(最も良いとしたのは法が守られた哲人王による政治である)

暴君による独裁は人々を破滅に導くとプラトンは説いた。

しかし、プラトンは法を無視した暴君をどうやって退却させるかは説いていない。

 

これが現実の難しさである。

ブルータスは深く考えた。暴君にじっと耐え、時を待つか。それとも自らの手でカエサルを殺してしまうか。

 

プルタルコスはある逸話を残している。ある時、幾人かがカエサルにブルータスには警戒したほうが良いと伝えた時にカエサルはこう答えたと云う。

 

『何だと、ブルータスがこの皺のよった皮を待っていられないというのか』

 

このセリフはカエサルがブルータスをいかに信用していたかを示している。

 

しかし、ブルータスは、自分を殺して待つことはしなかった。共和政の理念が失われたローマを見て見ぬふりをすることはブルータスにはできなかったのである。

前44年、カエサルはローマ軍の大半を保持し、終身独裁官の称号を得ていた。

 

そして、コインにはカエサルの肖像が刻まれるようになった。ローマで生きている人物の肖像がコインに刻まれたのはこの時が最初であった。

さらには、ブルータスも務めていたポンティフェクス団が管理していた暦もカエサルが改革したことで、ポンティフェクス団の既得権も奪われた。

ローマはどこもかしこもカエサルに染まっていた。

カエサル1人が統治するローマなどブルータスにとってはローマではなかった。

 

ブルータスは、自身のコインにも刻んだ、共和政ローマの創始者ルキウス・ユニウス・ブルートゥスの再来の役目を果たす時が来たと考えた。今こそ暴君カエサルを倒す時であると。

それは、カエサル暗殺、つまり暴君殺害という行為がイデオロギーとなると信じたからである。

ルキウス・ユニウス・ブルートゥスが暴君タルクィニウスを追放しローマを共和政に導いたように、自らの手でカエサルを抹殺すれば、ローマ市民はそれを英雄行為と称賛し、再びローマが共和政に再帰すると、ブルータスは考えた。

数々の歴史が示しているように、殺人行為は勝者が行えば英雄行為となり、イデオロギーとして認知されるのだから。

 

 

<5節:ブルータスのIdus Martiae(マルス月のイドゥス)のイデオロギー>

 

前44年3月15日、カエサルは、終身独裁官となってから僅か2ヶ月に満たないで、殺害された。

 

なぜ3月15日にカエサルが暗殺されたかは、数日後にカエサルのパルティア遠征の出発を控えていた矢先、3月15日にポンペイウス劇場で元老院会議が開かれることとなったため、この機会を利用してブルータスらは暗殺を実行に移したというのが通説となってきた。

しかし、本章のテーマは、ブルータスのコインから見たブルータス像の考察であるため、ブルータス目線の3月15日を勝手ながら想像したい。

それ故本節では、3月15日という日に、カエサル暗殺が実行されたのは、ブルータスらがこの日に暗殺を行えば、よりいっそうカエサル暗殺という行為がイデオロギーになりやすいと考え、この日を選んだという仮説を立てることにする。

 

3月15日はローマではIdus Martiae(イドゥス・マルティアエ)と呼ばれた。

3月15日と呼んでしまうと、ブルータスらがこの日に意味を持たせようとしたイデオロギーを理解しにくいので、本節ではこれ以降、「マルス月のイドゥス」と呼びたい。(英語では現在でも前44年3月15日はIdes of Marchと呼ばれ、この単語自体でカエサル暗殺を意味している。)

 

マルス月のイドゥスはローマ人にとって特別な日であった。

カエサルの暦改革以前は、ローマの1年の始まりはマルス神の月と呼ばれる3月であった。

3月は太陽が春分点に戻ってくる季節で、自然のサイクルが再びスタートする基準点、つまり新たな春の到来の時期である。

ローマ人はこの月をマルス神に捧げ、マルティウスの名で呼んでいた。

また、ローマ人は、日にちを現代人のように頭から順に数字で数えることはしなかった。

1ヶ月の内に、カレンダエ、ノーナエ、イドゥスの3つの基準日を設けていた。

これらの基準日から何日前、何日後という数え方で日にちを呼んでいたのである。

イドゥスは1ヶ月の中日にあたり、古くはこの日は満月に相当していたと推測される。

月の中日であるイドゥスは神聖な日として扱われ、毎月イドゥスの日にはユピテル神殿で生贄が捧げられた。

つまり、マルス月のイドゥスは、カエサルの暦改革以前では、新たな1年の最初のイドゥスなのである。

また、前152年まで、マルス月のイドゥスにその年の新たなコンスル2人が就任し、カピトリーニの丘のユピテル神の前で誓いを立てていた。

ブルータスは、このように神聖な日であるマルス月のイドゥスにカエサル暗殺を実行すれば、その行為がイデオロギーとして認知されやすいと考えたのではないだろうか。

 

前44年のマルス月のイドゥスに元老院会議が開かれることとなったのは偶然か故意に仕組まれたのかは今となっては謎であるが、ブルータスらが元老院会議を暗殺場所に選んだ理由はアッピアノス(2世紀の歴史家)が、以下のように説明している。

 

-彼ら(ブルータスら)は暗殺の場所に元老院会議場を選んだ。なぜなら、彼らは暗殺計画を知らない元老院議員らも、この行為を目の当たりにすれば、心から彼らを支持すると信じたからだ。ロムルス(ローマ建国者)が王から暴君となってしまった時に起きたことと同じ事例だと云われる。(ロムルスは暴君となり元老院議事堂で殺されたという説がある)

ブルータスらは元老院会議場で行われる殺害は、ロムルスの時と同じ行為であり、個人的な陰謀ではなく、国家のために行ったことと理解され、つまり公共の利となり、カエサルが指揮する軍団から攻撃されることはないと考えた。

これらの理由で彼らは満場一致で元老院会議場を実行場所に選んだが、実行方法に関しては意見が分かれた。幾人かは、カエサルの同僚コンスルでカエサルの親友でもある、軍功で最も名高いアントニウスをも殺すべきと考えた。しかしブルータスは、王を殺害すること、つまりカエサルの死によってのみ、暴君殺害の名誉を勝ち取ることができるのだと言った。もし、その友人までも殺せば、カエサル殺害という行為は個人的な憎しみと解釈されてしまう。(アッピアノス 『内乱』2巻114 英訳より筆者和訳)

 

このようにアッピアノスが述べたように、ブルータスは元老院会議場で暴君カエサルを殺せば、他の元老院議員たちもブルータスを支持し、殺害は違法行為ではなく、英雄行為となると考えた。

さらに、マルス月のイドゥスという、かつてはコンスルが就任した意義のある日に、カエサル抹殺が実行されることで、暴君殺害のイデオロギーは完成されると、ブルータスは信じたのだ。

 

今日、フランスで革命記念日がキャトーズ・ジュイエ(7月14日)と呼ばれるように、ブルータスはカエサル殺害の日が記念日となると考えていたのだろう。

それゆえブルータスは、最後に発行したコインにも、カエサルを暗殺した短剣と共に、マルス月のイドゥスを示すEID MARの文字を刻んだのである。

もし歴史という歯車が、別の歯車と嚙み合い、違う方向に進んでいたとしたら、ブルータスは歴史の勝者となっていたかもしれない。

そうなっていたら、マルス月のイドゥスは革命記念日として、現代の私たちにも記憶されているのだろう。

 

スエトニウス(70-130年頃のローマの伝記作家)がマルス月のイドゥスに関する興味深いエピソードを残している。

オクタウィアヌスはブルータスが敗死したフィリッピの戦い(前42年)から2年後、前40年のマルス月のイドゥスに、反乱に加わった元老院・騎士階層の捕虜から300人を選んで、神格化されたユリウス・カエサルの祭壇に生贄として捧げたという。

当時フォルムのカエサルが火葬にされた場所に、カエサルを祀る祭壇が設けられていたのだ。

オクタウィアヌスはカエサルの復讐として、わざわざマルス月のイドゥスに、大量虐殺を行ったのである。これは、オクタウィアヌスがマルス月のイドゥスを、それほどまでに恐れていたことを意味するのかもしれない。

オクタウィアヌスは大量虐殺という恐怖政策によって、ローマ市民の記憶からブルータスが掲げたマルス月のイドゥスのイデオロギーを徹底的に取り去る必要があったのだろう。

さらにスエトニウスよれば、元老院でマルス月のイドゥスを父親殺しの日(Parricidium)と呼ぶ案が提出され、この日に元老院会議は開いてはならないと決められたと云う。

 

また、オクタウィアヌスの徹底したマルス月のイドゥスのイデオロギーの抹殺は、同時代の文学作品、詩人オウィディウスが残した『祭暦』の中でも確認できる。

オウィディウスはカエサルの暗殺の翌年、前43年に生まれローマで活躍した、『変身物語』で知られる名詩人であった。

『祭暦』は、その名の通り暦が題材で、ヤヌスの月(1)の朔日から始まって、順々に毎日を詩で読んだ作品であり、ローマの支配者アウグストゥス(オクタウィアヌス)を称えて創作が行われた。

しかし紀元後8年、オウィディウスはアウグストゥスの命で追放刑に処されたために、『祭暦』はユニウス月(6)までの未完となっているのである。オウィディウスの追放地はローマから遠く離れた黒海西岸のトミス(現ルーマニア)であった。

なぜアウグストゥスがローマの天才詩人オウィディウスを追放刑に処したかは、ラテン文学史上最大の謎とされている。

オウィディウスは追放後に書かれた『悲しみの歌』の中で以下のように語る。

 

-「私は6(1月~6)の『祭暦』と同数巻(の『祭暦』)とを記した。各巻は月ごとに終わり、カエサル(アウグストゥスを指す)よ、あなたを称えて書き上げたばかりであったのに、あなたに捧げた作品を我が運命が引き裂いた」(オウィディウス 『祭暦』 高橋宏幸訳)

 

『祭暦』の失われた7巻から12巻は7月から12月までである。7月はカエサルの死後、アウグストゥスがユリウス月と呼ばせた月であり、8月はアウグストゥスによってアウグストゥスの名が付けられた月である。その呼び方は、JulyAugustとして現在の英語にも引き継がれている。

ちょうどユリウス月(7)以降の詩が失われたという謎について、想像力を逞しくするならば、ユリウス月、そしてアウグストゥス月(8)の出来がアウグストゥスの望んだ通りではなかったために破棄されてしまったと推測することもできよう。

オウィディウスはアウグストゥスが望んだほどに、カエサル、そしてその後継者を名乗るアウグストゥス賛美の詩を読まなかったために追放されてしまったのかもしれない。

 

オウィディウスは追放刑の赦免を願い入れていたが、その願いは聞き入れられないままにアウグストゥスは14年に死去した。

ティベリウスの治世となってもオウィディウスが赦されることはなく、オウィディウスは2度とローマの土を踏むことはなく、トミスで17年頃に死去した。

 

幸いにも、オウィディウスが『祭暦』の中で、マルス月のイドゥスの日を詠んだ詩は現存している。

マルス月のイドゥスは女神アンナ・ペレンナの祝祭日であり、オウィディウスはまずアンナ・ペレンナに関する神話を詠んだ後、最後の最後に315日のカエサル暗殺について付け加えている。その最後の部分のみを抜粋する。

 

 

 -あやうく私は元首(ユリウス・カエサル)に突き立てられた剣のことを言い落すところでした。しかし、そのとき、ウェスタの女神が清らかなかまどからこうおっしゃいました。

 「ためらわず物語れ。あの者は私の神官(カエサルの最高神祇官を指す)であった。瀆神の手が武器の狙いをつけたのは私だったのだ。私がみずからあの者を救い、ただの似姿だけを残しておいた。剣によって倒れたのはカエサルの影だったのだ。」

 実際、あの方は天界に入り、ユピテルの広間をご覧になり、大きなフォルムの中に捧げられた神殿をおもちです。ですが、神意の制止にもかかわらず罪業を犯した者たち、大神祇官の首を凌辱した者たちは、ひとり残らず当然の報いを受けて死に絶えました。証人をお求めならピリッピの野をご覧ください。(ブルータスが敗死したフィリッピの戦いの地を指す)彼らの骨が散らばった地面が白く見えます。

 こうして正義の武器により、父の仇を討つこと、このことがカエサル(アウグストゥスを指す)の仕事、カエサルの敬虔さ、カエサルのそもそもの手始めであったのです。(『祭暦』 高橋宏幸訳)

 

オウィディウスは、とってつけたようにマルス月のイドゥスのカエサル暗殺を語っており、当然ながらその内容はアウグストゥスを称えるものである。神君ユリウス・カエサルとアウグストゥスをほめそやし、ブルータスらの名は口にすることされ許されないかのように、ただ罪人、首を凌辱した者たちと呼んだ。

またアウグストゥスは、自身が記したアウグストゥスの業績録の中でも、ブルータスを名で呼ぶことはせず、ただ「私の父を殺したもの」と呼んだ。

 

このように、アウグストゥスは、マルス月のイドゥスのイデオロギーを徹底的に抹殺しようとしたのだった。

しかし、ブルータスのマルス月のイドゥスは、斬新な意匠となってブルータスのコインに刻まれたように、人々の記憶にも歴史的大事件として深く刻まれ続けているのである。

 

 

 <6節:前44年3月15日以降、ブルータスの死まで>

 

前44年3月15日、カエサルの暗殺は、ブルータスらの計画通り、元老院議員たちの目前で行われた。

ブルータスらは、その場ですぐに、暴君の死を目撃した他の元老院議員たちから祝福をうけると予測していた。

しかし、現実は違った。

カエサルが次々とめった刺しにあう姿を見て、恐怖により、多くの元老院議員は議会場から逃げ出したのだ。

混乱を聞きつけた市民もすぐに家の鍵をかけ、屋内に籠った。

特にカエサル支持の元老院議員たちは、即座に自身たちの身の危険を察したであろう。

カエサルの同僚コンスルであったアントニウスは、行方をくらまし、まずは身を守った。

 

カエサル殺害を終えたブルータスらは、彼らの警護の役目を果たした剣闘士を連れてカピトリーニの丘を占拠し、まずは市民に、自由を取り戻したことを訴える演説を行った。

一方、カエサルの代理人を務めていたレピドゥスは、カエサルの軍を指揮し、フォーラムの周りを占拠してしまった。

このような都市ローマの一触即発な状況に、市民たちは、ブルータスの高邁な精神に共感するよりも先に、本能である恐怖を感じた。

カエサル暗殺は、ブルータスにとっては自由でも、ローマ市民にとっては、内乱の再開の恐怖でしかなかった。

 

市民から熱い歓迎を受けられなかったブルータスらはカピトリーニの丘の集会を解散し、期を待つこととなった。

 

暗殺から2日後の、317日、テルス神殿で元老院会議が行われた。

この日から運命の歯車は、ブルータスにとって不利な方向に回り始めることとなった。

ブルータスらは主導権を握ることに失敗したのだ。

カエサルに仕えた多くの古参兵たちは、カエサルから土地が与えられることを約束されており、それが取り消されることを恐れてローマに集結して来た。

元老院は、大勢のカエサル軍の反乱を恐れ、会議では、カエサルが生前に決めた通り、古参兵には土地が与えられることとなった。

カエサルが生前に取り決めた他の法令も、そのまま承認され続けることとなった。

そして、ブルータスのイデオロギーとは矛盾して、ブルータスらのカエサル暗殺という殺人行為には恩赦が与えられるという結果になった。

さらに、カエサルは暴君としての扱いとは程遠く、国葬されることとなったのである。

 

320日、カエサルの葬式がローマの中心フォルムで取り仕切られた。

この葬式が、ブルータス失脚へのターニングポイントとなったのである。

巧みにもアントニウスは、民衆に血にまみれたカエサルの衣を示し、カエサルの遺言を公開した。

驚くべきことに遺言には、カエサルが惜しげもなく財産をローマ市民に分け与えることが記されていた。

ティベリウス川沿いの大庭園をローマ市民のものとし、さらには市民1人ひとりに300セステルティウス(デナリウス銀貨75枚分に相当)を与えるとの内容であった。

これにより、カエサル熱は沸騰し、ローマ市民は暴徒と化し、街は混乱に陥ったと云う。

混乱は、カエサル暗殺とは何も関係のない詩人ヘルウィウス・キンナが、暗殺者メンバーの1人のルキウス・コルネリウス・キンナと間違えられて殺されるという事態にまで発展した。ローマ市民の恐怖、混乱は、暴力行為となっていき、ブルータスらにとって、もはやローマは安全な地ではなくなった。

こうしてブルータスは、カエサル殺害から1ヶ月も経たない413日以前には、ローマを後にして、ローマ近郊に滞在し、情勢を窺うこととなった。

 

そして、この頃に頭角を現したのが、未来のアウグストゥス、オクタウィアヌスである。

カエサルの遺言により、相続人に指名されていたオクタウィアヌスは、カエサルのパルティア遠征準備のため、アポロニア(現アルバニアの都市)にいたが、4月初頭、イタリアに帰還した。

この時オクタウィアヌスは、カエサルの暗殺に関わらなかった元老院の有力者キケロに接近し、自身の政治的立場を探っていた。

 

6月に入ると、ついにアントニウスは、ブルータスを侮辱する行動に出た。

アントニウスは、65日の元老院会議で、ブルータスとその同志カッシウスに、属州アシアとシチリアでの穀物調達の任務を指示した。

当時ローマでは、穀物調達は、ブルータスのような華麗なキャリアを持った人物に相応しい任務ではなかった。

アントニウスは、暴君カエサルを殺した英雄ブルータスというイメージを失墜させようとしたのである。

 

68日、ブルータスはアンティウム(ローマから近く)の別荘で家族、友人と共に、この元老院で可決された穀物調達の任務にどう対応するかを話し合った。

ブルータスは、おそらくこの任務を引き受けたことを装って、アンティウムから出発したと推測されている。

 

さらに同じ頃、ブルータスを失望させることが起こった。

ブルータスはローマから離れていたものの、都市管轄のプラエトラルとして、7月にローマで開催されるアポロン祭の手配を進めていた。

ブルータスは、アポロン祭を成功させることで、ローマ市民の熱い支持を得るつもりであったが、ローマでは、アントニウスの弟ガイウス・アントニウスがアポロン祭開催の準備を取り仕切ってしまっていた。

 

そして、ブルータスを絶望の淵に陥れたのは、アポロン祭開催月の呼び名であった。

アントニウス、オクタウィアヌスのカエサル派は、アポロン祭の開催月、7(これまでクィンティリウス:5番目の月と呼んでいた)を、カエサルの名をとって、ユリウス月と呼び始めたのだ。

ローマでアポロン祭は「ユリウス月のノーナエ」(77)に開催されると公示されたのである。

この事態を、ネシス島でキケロから聞かされたブルータスがひどく動揺していたことを、キケロが書簡に記している。

ブルータスは、かつての7月の呼び名であるクインティリスの名で公示するように手紙を書いたが、もはやブルータスの指示は効力を持たなかった。

 

さらに追い打ちをかけるごとく、ブルータスにとって最悪な事態が起こった。

オクタウィアヌスが72028日にかけて、カエサルを称える競技会をローマで開催し、成功を収めたのだ。

その上、競技会の期間、オクタウィアヌスにとって幸いなことに、ローマの空に彗星が現れたのである。

鋭い判断力を備えたオクタウィアヌスは、この彗星をカエサルが神となって表れた証であるとし、カエサルの神格化を正当化する材料とした。

後にオクタウィアヌスはこの彗星をコインにも刻んだのである。

この頃からアントニウスは非常に機転のきくオクタウィアヌスに対して不信感を抱いていった。

 

このように、カエサルの死後、カエサリズムが沸騰したことは、ブルータスが消すことができたのは、カエサルという名のただの肉体であったことを意味している。

暴君はその死後もカエサリズムとして君臨し続けたのである。

ブルータスにとって真の敵は、カエサル自身ではなく、カエサルによって加速させられた、元首政治へと向かう時代の波であった。

ローマ共和政という名の寡頭政治の終焉は、ブルータス個人の勇気ではどうすることもできなかったのである。

 

カエサル暗殺から5ヶ月後の8月半ば、ブルータスはイタリア半島を去り、東方へ向い、マケドニア、イリュリクム、ギリシャで兵力の準備にあたった。

911月の間、ブルータスはギリシャに到着し、アテネで哲学の講義にも出席し、優秀な若者のリクルートも行っていた。

 

11月、アントニウスは属州の再配置を行い、弟ガイウス・アントニウスにマケドニア統治を任せ、弟ガイウスをマケドニアに進軍させた。

アントニウス自身はデキムス・ブルートゥスが治めるガリア・キサルピナに進軍した。

 

12月~翌前431月、ブルータスはマケドニアに進軍した。

ブルータスはマケドニアをガイウス・アントニウスの支配から防ぐことに成功し、ガイウスを捕虜とした。

 

一方、アントニウスと敵対していたオクタウィアヌスはキケロと接近し、元老院と手を結んだ。

 

434月、アントニウスはムティナでデキムス・ブルートゥスを包囲した。

アントニウスに包囲されたデキムスを救出すべく、ヒルティウスとパンサの両コンスル、そしてオクタウィアヌスがムティナに進軍した。

ムティナの戦いで、アントニウス軍はデキムス軍に敗北し、アントニウスは、ガリアに一時退去した。

デキムスもムティナを脱出し、アントニウスを追った。

しかしこの戦いで両コンスル、ヒルティウスとパンサが戦死するという予期せぬ事態が起こった。

 

このムティナの戦いの頃、ブルータスはディラッキウムで、属州アシアの総督トレボニウスを殺害したドラベッラを追っていた。

ドラベッラはアントニウスに属州シリアを与えられた後、直ちにトレボニウスを処刑したのだった。トレボニウスはカエサル暗殺者たちの中で初めて殺された人物となった。

 

ムティナの戦いの両コンスルの死で幸運を掴んだのは、オクタウィアヌスであった。

ローマのコンスル不在という、元老院の弱みをオクタウィアヌスが見逃すはずがなかった。

オクタウィアヌスは、死去した2人のコンスルの軍団をデキムス・ブルートゥスに引き渡すよう求められても無視し、自身で8個軍団を指揮してしまった。

オクタウィアヌスは、キケロが甘く考えていたように、元老院の手中で転がせる人物などではなかったのである。

 

さらにオクタウィアヌスは、8月、ローマに進軍し、コンスル就任に成功した。

同僚コンスルは、野心のないクィントゥス・ペディウスであった。ペディウスはカエサルの甥で後継者の1人であったが、オクタウィアヌスの言いなりの人物であった。

 

コンスルに就任したオクタウィアヌスは、ペディウス法(Lex Pedia)を可決させた。

ペディウス法(Lex Pedia)は、カエサル暗殺を有罪とし、よってブルータスらカエサル殺害者は罪人として、ローマ国家の敵と宣言された。

 

一方アントニウスは、ガリアで力を取り戻していた。

レピドゥスをはじめとし、ガリアとヒスパニアの属州総督3人を味方につけてしまったのだ。

ブルータスの義理の兄弟であったレピドゥスは寝返って、アントニウスに味方した。

 

そしてついに、ブルータスら共和政派が一番恐れていたことが起きた。

アントニウスとオクタウィアヌスが手を結んだのである。

11月、ティティウス法(Lex Titia)により、アントニウス・オクタウィアヌス・レピドゥスの3人委員が発足した。(第2回三頭政治とよばれる)

ティティウス法によって、恐怖のプロスクリプティオ(公権剝奪公示)が始まったのだ。

プロスクリプティオは、いわば死刑宣告で、その名が公示された者は、命、財産が剝奪されるという処罰であった。プロスクリプティオは、スッラの時代にも行われ、ローマ市民を恐怖の底に陥れた。恐怖は再び、オクタウィアヌスら3人委員によって、ローマ社会に蘇ったのである。

 

ペディウス法によって、ブルータスを始めとするカエサル暗殺者たちが有罪となり、さらにティティウス法によって、キケロをはじめとする有力な元老院議員たちも死刑に処されることとなった。

ローマはまさにキリング・フィールドと化した。

3人委員のプロスクリプティオによって300人の元老院議員と2000人にのぼる騎士階級の人士が殺され、財産を没収されたと云う。

この大量虐殺によって、共和政支持者たちはローマから一掃されたのだ。

 

10月にはデキムス・ブルータスが殺され、12月にはキケロが殺された。

 

これを受けて、ブルータスは、12月末から前42年1月、マケドニアで捕虜としていたアントニウスの弟ガイウス・アントニウスを、マケドニア属州総督ホルテンシウスに命じ処刑させた。

ガイウスの処刑は、ブルータスがアントニウスと和解するという選択肢を、完全に断ち切ったことを示す。

ガイウスはアントニウスと和解する場合の切り札であったが、3人委員が結成され、プロスクリプティオが開始された今、ブルータスが進む道はカエサル派との全面対決であった。

ブルータスにとって、カエサルの後継者を名乗るオクタウィアヌスと同盟を結ぶことは、再び自身が奴隷になるということで、絶対に受け入れられないことであった。

ブルータスが前437月頃にキケロに送った書簡の一部を抜粋したい。この時期、キケロはオクタウィアヌスに取り入ろうとしており、この行為をブルータスは書簡の中で厳しく批判している。

 

 -もし国家が、祖先から伝えられ教え込まれた自由を回復することができず、また最大の勢力を保有していたあの男(ユリウス・カエサル)でさえ少数者の勇気によって取り除かれたのを、まのあたりに見ながらも、自身を持つより、むしろ殺された国王の名をあの若造(オクタウィアヌス)の中に認めて恐怖するならば、そういう国家を私は見たいとは思いませんし、仮にも国家とみなしたいとは思いません。(ブルートゥス書簡 第25書簡 『ローマ文学集』 高田邦彦訳))

 

ブルータスにはカエサル派との全面戦争しか残された道はなかったし、それをやり遂げることが、彼の3月15日のイデオロギーを貫くことであった。

 

ブルータスとカッシウスは、全面戦争に向けて、東方の資金と兵力をかき集めた。

ブルータスは、資源豊かなトラキアを征服し、族長たちを支配下におき、潤沢な資金を手に入れることに成功していた。

 

そして前421月、ブルータスとカッシウスはカエサル派との戦いに向け、スミュルナ(アシア)で会合を行った。

カッシウスは、エジプトでドラベッラを支援していたクレオパトラと対峙していたのを中断し、ブルータスの元へ駆けつけた。

また、ブルータス、カッシウス側には、強力なシチリアの艦隊を指揮するポンペイウスの息子セクストゥス・ポンペイウスがいた。セクストゥス・ポンペイウスもプロスクリプティオ(公権剝奪)の対象者となったため、ブルータス側に協力した。

この時点で、エジプト、ロードス島、リュキア以外の東方はブルータスらの手中にあり、共和政派が勝利する可能性は存分にあった。

ブルータスは、スミュルナの会合で、ローマの三頭政治に対抗して、共和政派が東方地域で一致団結し、全面戦争に臨む決意を示したのであった。

 

スミュルナの会合から数か月後、カッシウスはロードス島、ブルータスはリュキア(現トルコ)の都市を攻略し、さらに軍資金を得て、カエサル派との戦いに向かった。

イオニア海とエーゲ海両面の制海権を手中におさめ、エジプト以外の東方諸国をおさえた共和政派の勝利の可能性は高かった。

 

さらにブルータスは、全面戦争に向け、東方の資金を元にコインを発行した。

本章冒頭にあげた世界で最も有名な古代コイン、ブルータスの短剣のコインは、前42年の夏から秋に発行されたものである。

 

 [前42年夏~秋発行デナリウス銀貨 ブルータス最後のコイン]

 

ディオ・カッシウス(-3世紀の歴史家)は、著書『ローマ史』の中でこのコインについて述べており、古代においてすでに、ブルータスの短剣のコインは有名であったことがわかる。

ディオは以下のように記している。

-ブルータスは帽子と2本の短剣を刻んだコインを発行した。コインのデザインと銘(EID MAR3月15日を指す)は彼とカッシウスが祖国を解放したことを意味している。(ディオ・カッシウス 『ローマ史』47巻25)

 

コインオモテ面には、ブルータス自身の肖像が刻まれている。

ブルータスの肖像からは、不思議と繊細さと逞しさの両面を感じる。

肖像の1つ1つのパーツは、華奢にもかかわらず、肖像全体からは、屈強さが発せられている。

まるで弱さと強さを、かわるがわる見せる、人間の心そのものを表しているかのようだ。

さらには、カエサルがブルータスについて語った言葉が想い起される。

「この男が何を望んでいるかは大きな問いだ、だが何を望むにしても彼は強く望む」

 

そしてまた、ブルータスのコインにブルータス自身の肖像が刻まれたことは、皮肉ともいえる。

なぜなら、コインに生きている人物の肖像を刻むことを始めたのは、ブルータスが暴君と呼んだカエサルその人であったからだ。

しかし、カエサルの後継者を名乗ったオクタウィアヌスが、コインに自身の肖像を刻んで、それを受け取る兵士の士気を高めるようになったからには、ブルータスも指揮官として、自身の肖像をコインに刻んで、フィリッピの戦いに挑む必要があった。

 

コインのブルータス肖像の周りには、BRVT IMP  L PLAET CESTの銘が刻まれている。

これは、BRVT IMP は インペラトルであるブルータスを意味している。

インペラトルは命令権(軍事指揮権)を保持する者の意で、軍の最高指揮官である。コインの銘は、ブルータスがカエサル派との全面戦争に向け、インペラトルとして軍を指揮したことを証明している。

L PLAET CEST Lucius Plaetorius Cestianus ルキウス・プラエトリウス・ケスティアヌスを示す。この人物はブルータスの副官であるが、詳しいことは知られていない。

 

コインウラ面には、前44年3月15日のカエサル暗殺が、イデオロギーとして、誇らかに意匠化されている。

2本の短剣、その間には自由を意味する帽子ピレウス、その下には 315日を示す、EID MARの銘が刻まれている。

短剣はpugio(プギオ)と呼ばれた、古代ローマの武器である。ブルータスはこのプギオを使ってカエサルを刺し殺した。

コインに刻まれた2本のプギオは、興味深いことに柄の意匠が異なっている。

左側の短剣の柄は十字型をしているが、右側の短剣の柄は丸型である。

2本の異なる短剣は、ブルータスとカッシウス両人をイメージしているという説もある。

そして、2本の短剣の間に表されているのは、pileus(ピレウス)と呼ばれた帽子である。

これは奴隷が解放される時に被った帽子で、自由の象徴であった。

ブルータスが短剣によって、ローマをカエサルの隷属から解放したという意味がこのシンボルには強く込められているのである。

元来、ピレウスはローマの守護神カストルとポルックス(ディオスクロイ)の兄弟が被っている帽子である。

自由と共に、ローマの神を彷彿させるピレウスを短剣の間に配置したことは、カエサル殺害の行為が、神々によって権限を与えられたと主張する意図もあったのかもしれない。

 

神から権限を与えられた、神の加護を受けている、これらのことをアピールする意匠は、この時期、ブルータスが発行したコインに多く取り入れられた。

その例を示すのが次にあげるコインだ。

 

 

 [前42年夏~秋発行デナリウス銀貨 ブルータス最後のコイン]

 

写真のコインも前42年の夏から秋に、フィリッピの戦いを前に、ブルータスが発行したデナリウス銀貨である。

オモテ面にはアポロン神の肖像が刻まれており、ブルータスがアポロンの加護を受けていると示したかったことが推測される。

そもそもブルータスとアポロンの関係は深い。なぜなら、ブルータスの祖先ルキウス・ユニウス・ブルータスによる暴君タルクィニウスの追放は、アポロンの神託を受けて成されたという伝説があるからだ。

またプルタルコスによれば、ブルータスは、最後の決戦が近づいた自身の誕生日の祝宴で、盃を手にし、「しかし私は痛ましい運命とレトの息子(アポロン)に殺された」(『イーリアス』の中で死に挑むパトロクロスが言うセリフ)と言ったと云う。

さらには、ブルータスは、フィリッピで最後の戦いに挑んだ時、兵士の合言葉を「アポロン」に定めたと云う。

 

コインのアポロンの肖像と共に刻まれたLEG COSlegatus costaの略で、副官コスタを意味する。この副官 Pedanius Costa ペダニウス・コスタについて詳しいことはわかっていない。

コインウラ面には戦勝記念柱とIMP BRVTVSの銘が刻まれている。8の字型の盾が特徴的な戦勝記念柱は、ブルータスがトラキアやリュキアの地を征服したことを意味している。

これらの一連のコインを、フィリッピの戦いに備えて発行できたのは、トラキアを始めとした東方諸都市を征服して大量の金銀を搾取したことに因るところが大きいと推測されている。

 

 [前42年初頭発行デナリウス銀貨 ブルータス最後のコイン]

 

上写真のコインは先に挙げた2枚のコインよりも、やや早い時期、前42年の初頭に、カッシウスと会合を行ったスミュルナ周辺で発行されたと推測されている。

オモテ面のBRVTVSの名がIMP(インペラトル)を伴わず、単独で刻まれているために、ブルータスがフィリッピの戦いを目前にしてインペラトルの称号を掲げる以前に発行されたと推定されている。

BRVTVSの銘の上に刻まれたのは、神祇の道具で、左から斧、ひしゃく、短刀である。これらのシンボルはブルータスがポンティフェクスであることを示している。

ウラ面にはブルータスの副官であるLentulus Spinther レントゥルス・スピンテルを示すLENTVLVS SPINTの銘が刻まれている。

この人物は前57年に卜占官に選出されており、銘の上には卜占官のシンボルである、水差しとリトゥウス(曲がった杖)が刻まれている。

ブルータスは、神官という超人的な権威を表すシンボルをコインに刻み、神から厚い加護を受けていることを強調した。

勝利の女神はブルータス軍に微笑んでいることを、コインを受け取る軍団に確信させたかったのである。

 

これらのプロパガンダ的なコインを発行して、ブルータスはフィリッピの戦いに万全を期した。

アッピアノスによれば、ブルータス、カッシウス軍は、東方諸都市から得た豊かな資金で軍団に事前に気前よく報酬を渡していたと云う。

ブルータスは、フィリッピの戦いを前にして、トリブヌス・ミリトゥム(軍団司令官)15000デナリウス、ケントゥリオ(百人隊長)7500デナリウス、レギオナリウス(軍団兵)1500デナリウスを与えたと云う。

 

フィリッピの戦いでのブルータス、カッシウス軍の作戦は、敵をマケドニアの地に引き留めて戦いを避け、戦闘開始を冬まで引き伸ばすことであった。そうすれば、敵の軍団は食料不足となり、マケドニアの不毛な内陸に散らばっていくか、ギリシャの狭い地域に取り残されると予測していた。

 

ブルータス・カッシウス軍はフィリッピの野に陣を張った。北に山が迫り、南には沼が広がるため、攻略は異常に難しい場所であったためである。エグナティウス街道を挟んで右翼にブルータス、左翼にカッシウスが陣を張った。

 

しかし、アントニウスがフィリッピに到着し、沼を突破し、南へ進み、カッシウスの陣営に戦闘を開始させたことで、ブルータス、カッシウスの作戦は崩れはじめた。オクタウィアヌスもアントニウスに続いた。

右翼のブルータス軍はオクタウィアヌスの陣営を勝ち取ることに成功するも、アントニウス軍はカッシウスの正面部隊を突破し、カッシウス軍の陣営を攻略してしまった。

さらに、カッシウスは、砂塵が舞い視界が悪く、ブルータスも敗北したと誤った判断をしたために、絶望から自決してしまった。これがフィリッピでの最初の戦いで、10月3日のことであった。

 

ブルータス、カエサル派両軍は一時退却し、陣を整えた。

カッシウスを失ったブルータスが戦闘を続けることは不可能であった。具体的な戦闘の作戦を立てていたのは、カッシウスであったと云われるからだ。

3週間ほどの時が流れる中、勝利の風向きがブルータス側に吹くことはなかった。ブルータス軍の士気は下がっていき、東方諸国の補助軍の兵士は逃げ出し始めていた。

 

1023日、なし崩し的に戦闘が再開され、ついにブルータス軍は敗北した。

ブルータスの敗北は目に見えていたのかもしれないが、彼は闘う他なかった。

 

プルタルコスは、敗北し陣営に籠ったブルータス、最期の言葉を伝えている。

「そうだ、どうしても逃げなくては。しかし足でなしに手で逃げよう。」

ブルータスは、親しい仲間の1人に剣を持たせ、その剣めがけ突進した。

剣はブルータスの胸に突き刺さり、ブルータスは瞬く間にこの世を去ったと云う。

 

こうしてローマ共和政は、ブルータスと共に、永遠に消え去ったのである。

ブルータスはローマ共和政の理想のために生き、死をもって、自身の3月15日のイデオロギーを貫き通した。

ローマ共和政を飲み込む、元首政という時代の流れを、ブルータス個人がせき止めることは不可能であったのだ。

 

ディオが記した、ブルータスの最後の叫びを聞いてほしい。

 

 ―おお、惨めな美徳よ、要するにお前は言葉に過ぎなかったのだ。私はお前を実体と思って励んでいた。だが結局お前は、偶然の奴隷でしかなかった。(ディオ・カッシウス 47・49・2  ロナルド・サイム 『ローマ革命 上』)

 

しかし、ブルータスの最後の叫びに反響するかのように、一部の人々は、ブルータスという人間に共鳴し、ブルータスを、人間としての生き方を問題提起する存在として捉えた。

 

例えば、哲人皇帝マルクス・アウレリウス(121-180年)は『自省録』の中でブルータスを知ったことで、権利の平等と言論の自由を基礎とし、臣民の自由をなによりもまず尊重する主権を備えた政体の概念を得たと述べている。

また、シェイクスピアは、『ジュリアス・シーザー』において、共和政の自由に身を捧げるブルータスを主役として物語を展開し、ブルータス個人の生き様の美しさを描いた。さらには、個人が集団と化すと、アントニウスの演説の名シーンで表現されたように、群衆のダイナミックで抗いがたい力が作用して、社会は変化していくことをリアルに描いた。

 

ブルータスの死によって、ローマ共和政は終わり、以降ローマは、オクタウィアヌスによる単独支配、帝政時代への道をまっすぐに進んだ。

しかし、ブルータスの魂は、彼自身が発行したコイン、彼自身の書簡、さらにはブルータスから想起された後世の芸術作品の中にも見出すことができる。

 

今一度、ブルータスが発行した3月15日のコインを見てほしい。

コインは発行されてから2000年以上もの時を刻みながら、ブルータスのイデオロギーを訴え続け、人々の心に人間とは何かという終わりなき問いを投げかけているのだ。

 

 

(2018年9月15日掲載 筆者:中村めぐみ)
※本章掲載のコインは全て当ギャラリー所蔵